マルコ10:32-45 『「逆転の人生」―上に立つ人生から仕える人生へー』2006/08/27 小西孝蔵

マルコ 10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

1. 勝ち組と負け組

皆さん、NHKの大河ドラマ「功名が辻」を見ておられますか。我が家でも時々見ているのですが、山内一豊を中心として、戦国時代に武士が手柄を立てようと、必死になっている様子が面白い。私にとって家内が山内一豊の妻「千代」のように思えてきて、内助の功にとても感謝しています。もっとも、家内は、全然そんな気持ちがないようですし、夫の立身出世なんか全く望んでない点が千代とは違いますが・・・。

時代が変わって、現代でも、「勝ち組、負け組」とか、格差社会と言って、昔以上に競争に明け暮れている世の中です。多くの人にとって少しでもいい学校へ、いい会社へと競争にあくせくしています。サラリーマンにとって、リストラや企業買収からの生き残りなど気が休まらない毎日が続きます。三十歳代の若者を中心に心の病が急増していると言う報道もありました。今も戦国時代と変わりないのかもしれません。

競争自体が決して悪いわけではなく、むしろ、競争によって、能力を磨いたり知識を広げたりすることができますし、また、お客さんや国民へのサービスが向上するというメリットがあることは事実ですし、それによって、社会に貢献できるようになることは、大事なことです。

しかし、競争自体が自己目的化し、人に勝つこと、他人に勝って優越心をもつことが最大の生きがいになると問題は深刻になります。高慢、ねたみやあせりが独走し、やがて大きな壁にぶち当たることは必死だからです。こうした人間のこころの問題に対してイエスはどのようにお答えになるのか、マルコによる福音書10章に書かれた弟子たちとのやり取りの箇所から学んで見たいと思います。

2.仕えられるためではなく仕えるために(マルコ第10章32~45節)

1)エルサレム上りと3回目の受難予告

イエスは、3年余にわたる伝道活動の終わりに差し掛かり、エルサレムにおいて十字架につけられることを予感しつつ、決死の覚悟で進んでいかれました。弟子たちは、その意味がよくわからないまま、その後をついて行くものの、内心恐れていました。

イエスは、こう言われました。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして異邦人に引き渡します。すると彼らは、あざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は、3日の後によみがえります。」(10章33~34節) この受難の予告は、3回目にあたるもので、イエスは、弟子たちに自分の身に降りかかるであろう受難について繰り返し教えようとしますが、弟子たちは、まったく理解できませんでした。

イエスを十字架につけようとしている祭司長やパリサイ派の律法学者たちは、最高法院と呼ばれる議会を構成し、ローマ帝国からユダヤの地域の問題に関する決定権を与えられていました。彼らは、律法を形式的に守り,律法の権威を笠に着て自らの優越的地位を誇示していましたが、自分たちを偽善者と名指しし、自分たちの地位を危うくするようなイエスに対して敵意と殺意を感じてイエスを殺そうと計画していました。

2) ヤコブ、ヨハネと弟子たちの功名争い

ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、イエスに対し、「先生、私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」(35節)、「あなたの栄光の座でひとりを先生の右に、一人を左にすわらせて下さい。」(37節)といいました。彼らが望んでいるのは、ローマ帝国から独立したこの世の王国をイエスが実現し、イエスが王座に付いたときその右と左に座る栄誉に預かりたいと言うものでした。イエスは、ご自分の受難の意味について理解していないことに失望しながらも、「あなたがたは、私が飲む盃を飲み、私が受けるバプテスマを受けはします」(39節)と予告しました。

ヤコブとヨハネは、ペテロと並んでイエスの側近とされていました。3人は、ガリラヤの漁師で、アンデレとともに最初に出会ったイエスの弟子であり、それまでも、イエスが、神の栄光を受けるために変貌の山に登ったときなど大事な場面でイエスは3人を連れて行かれました。ヤコブとヨハネは、イエスからボアネルゲス(雷の子)というあだなを付けられたぐらい気性の激しい性格だったようです。ヤコブとヨハネの母は、サロメといってイエスの母マリアの従姉妹ともいわれていることからも、他の弟子とは違うんだと言う特別の意識をもっていたのかもしれません。

「ほかの10人の者(弟子たち)は、ヤコブとヨハネのことで、腹をたて始めた」(41節)。このことは、これが始めてではなく、イエスの第2回の受難予告の直後にも、弟子たちの間で誰が偉いか論争しています(9章34節)。 弟子たちの間で序列争いの意識がいかに根強いことでしょう。そして、十字架の死に向かう最後の場面で、イエスの思いと弟子たちの意識との間に何と大きな違いがあることでしょう。

3)キリストの身代金による解放と弟子たちの逆転の人生

イエスはこう言われました。「あなた方の中で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みんなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためでなくかえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの対価として自分のいのちを与えるためなのです。」(43-45節)

「仕える」とは、英語の聖書では、minister と言う言葉を使っています。大臣と言う意味もありますが、人の上に立つ立場の人は、人に仕え、人のために仕事をする責任があることを意味する言葉でもあります。

「多くの人のための、贖いの対価として自分のいのちを与える」とありますが、「贖いの対価」とは、英語の聖書では、ransom 、新共同訳では「身代金」と訳されています。身代金とは、奴隷を解放する際に支払われる代金のことを言います。旧約聖書レビ記25章にあるように、モーセがイスラエルの民に与えた律法によって、外国人の奴隷になっている人は、五十年に一度巡って来るヨベルの年に無条件で解放されました。そしてヨベルの年までの間には、「身代金」を払って解放することができました。五十年ごとにめぐってくるヨベルの年は、主の恵みの年と言われ、奴隷からの解放を喜ぶ年でありました。

イエスは、伝道を開始されたとき、イザヤ書61章を引用しながらように、この主の恵みの年に、罪の奴隷になっている状態から、私達を解放すると宣言されています(ルカによる福音書4章18・19節)。イエスは、私たち人間が高慢やねたみ、そねみといった自己中心の罪にがんじがらめに縛られている状態から十字架の死という代償を払って解放して下さった。そしてイエスは、弟子たちに対し、「(イエス自身が)仕えられるためでなく、仕えるためにこの世に来たように、人に仕えるものとなりなさい」と言われました。

ヤコブ、ヨハネなどの弟子たちはこのようなイエスの教えが理解できず、イエスがゲッセマネの園で祭司長たちに逮捕されるとき、イエスを見捨てて逃げ出しました。イエスが十字架につけられたとき、彼らは、完全に挫折して再起不能に陥っていました。しかし、イエスは、そのことを最初から見通しておられ、弟子たちを愛しつづけられました。イエスは、予言どおり、十字架の死の後、復活して、彼らの前にすがたを現し、約束の通り(ヨハネ14・26)、助け主となる聖霊を遣わされました。

ヤコブとヨハネも復活のイエスに出会い,聖霊を与えられて、立ち上がりました。数々の迫害にも耐えて、ガリラヤ伝道など各地の伝道の中心的存在となり、キリストの証人となったのです。ヤコブは、ヘロデ・アグリッパ一世によって殺され、12人の弟子たちのうちで最初の殉教者となりました。また、ヨセフも、ペテロと友に熱心に伝道に従事し、迫害を受けてパトモス島に流刑と身となり、そこでヨハネ黙示録を書き上げ、弟子たちの中で最後まで生き延びて信徒を励まし続けました。ヤコブもヨハネも自らの力では挫折しましたが、イエスの十字架の贖いによって、自分の罪から解放され、イエスの復活によって与えられた聖霊の力によって、「人の上に立つ人生」から、「神と人とに仕える人生」に変えられたのです。

3. 石井筆子の仕える人生

私のつたない人生を振り返って見て、特に若い頃は、受験競争において人に勝つことに生きがいを感じるような生き方をして、大学に入って暫くして人生の目的を見失って全くの無力感に陥りました。そうしたとき、寮の先輩であるKさんと言う方が、大学紛争時の挫折体験とキリストの信仰を通して、立身出世の道を捨て、社会福祉の道に身をささげたことに感化を受けた。信仰による価値観の転換が図られて、どん底から立ち直ることができました。

そのKさんが社会福祉法人滝乃川学園で35年間障害児教育に取り組んでこられましたが、その中で、日本の障害児教育の母と呼ばれる元学園長の石井筆子さんの研究を進め、山田火沙子監督らの協力も得て、このたび、映画化にこぎつけることができました。

石井筆子の生涯を簡単にふりかえって見ますと、長崎県大村藩士の娘で、東京で高等教育を受け、フランスにも留学、津田梅子と共に、学習院の前身である華族女学校で、外国語教師になる一方、帝大卒の有能な官僚であった夫と結婚し、鹿鳴館を舞台とする社交界でも名が知れ渡るほどでした。

しかし、夫との間に生まれた子供は、3人とも障害児で、夫にも子供にも死に別れるという想像を絶する不幸に見舞われます。そのなかで、彼女は、信仰に導かれ、受洗しました。彼女は、障害の子供を連れて、滝乃川学園に入り、やがて敬虔なクリスチャンである園長の石井亮一氏と再婚し、障害児教育に身を投じます。その後も試練は続き、学園の火災により6名の園児が焼死し、学園の閉鎖を決意したときかつての教え子であった大正天皇の皇后から御下賜金と励ましを得て立ち直ったこともありました。また、再婚の夫とも死別し、学園の経営を任されましたが、第2次大戦下で栄養失調で31人の園児を次々と無くし、再度閉鎖寸前に陥ったことなど苦難の連続でありました。

こうした中、彼女は最期まで、信仰による希望を捨てず、キリストの十字架を背負って茨の道を歩みました。死の直前に次のような歌をよんでいます。「いばら路を知りてささげし身にしあればいかで撓(たわ)まん撓むべきかは」。敗戦の前の年、身内に見守られることなく、83歳で静かに息を引き取りました。この世的に見れば失敗にしか見えなかった彼女の人生が、神の愛の御手の働きによって、豊かに実を結び、今日1万を超えるとも言われるこうした施設のモデルにもなって今の世に光を放っています。

4. いつも主にあって喜びなさい

私たちは、ヤコブやヨハネのように、あるいは、石井筆子のような立派な信仰をもち、立派な行いをすることができるでしょうか。自分の力で己を捨て、一生涯神と人とに仕えることができるでしょうか。答えは、ノーでしょう。自分が人からよく思われたい、人の上に立ちたい、自分の手柄にしたいという自己顕示欲からなかなか逃れられません。本当に人に仕えるためには、神様の愛をいただかないと出来ません。神様は、愛する一人子イエスをこの世につかわし、罪の奴隷となっている私達を、十字架の贖いにより身代金を払って解放して下さった。私達は、その神の愛をただ信じればいいのです。

私たちは、仕事のストレス、子供の教育、親の介護、夫婦の関係、病気、人間関係など様々な問題や試練に直面します。試練にあって思い煩ったり、もうだめだとくじけそうになったり、逃げ出しそうになったりします。わたしたちは、本当に、どうしようもなく、自分勝手で、弱い存在です。しかし、日々主を仰いで祈り、日々聖霊をいただき、日々感謝し、日々神様の御手に委ねることにより、潔められ、力があたえられます。どんな問題でも、神の御手の働きによって、解決するのです。失敗の連続の人生でも、神様の計り知れないご計画の中で完結させていただけるのです。

奴隷から解放されるヨベルの年は、喜びの年であり、英語の「喜び」JUBILEEの語源にもなっているそうです。JUBILEEは、五十周年の記念祭という意味にも使われています。パウロは、この喜びがいかに大事か、ピリピ人への手紙4章4節から7節でこういっています。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。・・・何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる、祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただきなさい。人のすべての考えにまさる神の平安があなたたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

今週も、自分を見つめて思い悩むのではなく、キリストを仰ぎみつつ、常に喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝し、喜んで人に仕える毎日を送りたいと思います。

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