創世記26:12-25 『もう一度井戸を』 2006/08/20 松田健太郎牧師

創世記 26:12~25
26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。
26:13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
26:14 彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。
26:16 そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」
26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。
26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。
26:19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。
26:20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。
26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。
26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
26:23 彼はそこからベエル・シェバに上った。
26:24 主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
26:25 イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。

日本ではあまり多くないですが、クリスチャン・ホームで育った人たちがこの教会にも何人かいらっしゃいますね。
この教会に来ていらっしゃるクリスチャン・ホームで育った皆さんを見ていると、皆さんのご両親は素晴らしい方々だし、素晴らしい信仰を持った方々なんだろうなと思います。
でもそれは、全てのクリスチャン・ファミリーが望めることではありません。

僕が神学校に行ってた頃、当然の事ながらクリスチャン・ホームで育てられた友人達もいました。
仏教徒の両親を持っている僕にとって、クリスチャンの家庭で育った人たちというのはとても羨ましかったんです。
両親に対して伝道をしなくてもいいし、両親と信仰の話ができるわけだし、何よりも神学校に行って牧師になるということを理解し、喜んでくれるということが羨ましくて仕方がありませんでした。

ところがその友人に羨ましいという想いを打ち明けると、友人は逆に僕を羨ましがるんですね。
「いいなぁ、ノン・クリスチャンの家庭で育ったのか。」と言うわけです。
聞けば、「自分は生まれたときからずっと教会に行って、クリスチャンに囲まれて育ってきた。だから伝道したくてもノン・クリスチャンの気持ちなんてわからないし、教会の中で育つのも、それはそれでプレッシャーがあるんだ。」と言うんですね。
「そんなバカな」と僕はその時思ったのですが、彼が言ったその意味を、僕は少しずつ理解していくことになります。

ひとつには、日本にクリスチャンの両親に育てられていながら、信仰を継承していかない人たちが日本には非常に多いということ。
牧師の子供に、極端にぐれてしまう子が多いということ。
そして、クリスチャンの両親に育てられたという人の中に、心を病んでいる人が多いということ。
クリスチャン・ホームだからそういう問題を持ったというわけではないのかもしれませんが、祝福であるはずのことがあるべき形として伝わっていないのではないかという疑問がどうしても湧いてきます。

今日はアブラハムから信仰を継承したイサクの人生から共に学んでいきます。
信仰の継承はどのようにして実現されていくのか、ということに特に焦点を当てて、一緒に考えていきたいと思います。

① 継承されにくい福音
アブラハムからどれほど大切に育てられてきたとか、イサクがモリヤで見せた従順と信仰を考えると、イサクはそれからの生涯をどれほど素晴らしい信仰者として生きたかと想像してしまいます。
アブラハムが75歳から信仰生活に入ってあれほど偉大な信仰に至ったのですから、生まれたときから神様の側にいるイサクは、アブラハムよりもっと素晴らしい信仰に至っていくのではないか。
信仰のエリート、信仰のスーパーマン。
もう、何も間違った事をせずに神様に愛される一生を送る。そんな人生がイサクの前には広がっていたんでしょうか?
まずは、神様がイサクに語った言葉を見てみましょう。

創世記 26:1 さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。
26:2 主はイサクに現われて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。
26:3 あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。
26:4 そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。
26:5 これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」

最後の所、いいですね、素晴らしい。
アブラハムの信仰によって、イサクが祝福を受け、子孫が空の星のように増え広がっていくとすでに約束されている。
祝福はもう、すでに受けているのです。
これが、ノン・クリスチャンの家庭で育った私達がクリスチャン・ホームを羨ましく感じる理由です。
もうすでに祝福の中にある。
神様の恵みの真っ只中にいる。
私達の人生が罪と苦しみの中からスタートして、ようやくたどり着いた神様の恵みを、この人たちは最初から知っているわけですよね。
ところが、これがそういう風にはうまく働かないのが現実だったりします。
なぜでしょうか?

ひとつは福音が間違った形で伝わってしまっている場合。
本人が確かに神様の祝福を受けていても、その理解が根本的に間違えていれば、伝えられる次の世代が祝福として受け取る事ができないのも当然です。
だから私達は、自分が救われたという部分で終わってしまうのではなく、福音をしっかりと理解する必要があるのです。
でも、神様の祝福を確かに受け、福音を理解していても、うまく伝わらない事があります。
それは、私たち人間の言葉の限界かもしれません。
言葉だけでは、経験を共有する事はできないからです。

子供を産む痛みは、男性が理解してあげる事はできません。
男性が会社で経験する男の戦いも、女性には理解する事ができません。
私達は相手が理解してくれるとか、自分は相手の事を理解できているという勘違いのために人間関係の問題に陥ってしまうほどです。
どうすればその問題を解決できるのでしょうか?

26章の冒頭をもう一度見てみましょう。
イサクがそこで経験したのは、カナンの地に起こった大飢饉でした。
何か、聞き覚えがないですか?
アブラハムの時代に同じ事が起こっていたことを、皆さんは覚えていないでしょうか。
アブラハムが神様の声を聞いて旅立ち、カナンに到着するや否や飢饉が起こって、アブラハムは信仰を失いエジプトの地に逃れて行ったのでしたね。

26章6節からのところは何を語っていますか?

26:6 イサクがゲラルに住んでいるとき、
26:7 その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です。」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です。」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。
26:8 イサクがそこに滞在して、かなりたったある日、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見えた。
26:9 それでアビメレクはイサクを呼び寄せて言った。「確かに、あの女はあなたの妻だ。なぜあなたは『あれは私の妹です。』と言ったのだ。」それでイサクは、「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです。」と答えた。
26:10 アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのだ。もう少しで、民のひとりがあなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった。」
26:11 そこでアビメレクはすべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」

これも聞き覚えがないですか?
アブラハムがまさに同じ失敗を、2回も経験しました。
アブラハムはエジプトのパロや、ペリシテ人のアビメレクの前で妻のサラを妹だと偽り、危うく大きな罪となる所を神様に救われています。

イサクの生涯には色々な事があったでしょうが、聖書に描かれていることは決して多くはありません。
そのような数少ないイサクの物語に書かれているのが、ほとんどアブラハムと同じ話だというのはどういうことでしょうか?

② 神様を経験する
それは、信仰の継承というものが親から子への教育だけによらない事を意味しています。
イサクはこの時点ですでに信仰を持っていたと思われるので、神様との出会いとはいえなかったかもしれませんが、イサクが彼の信仰を成長させていく過程ではアブラハムと同じ試練をくぐり抜ける必要があったということです。
イサクは父と同じ試練を経験してアブラハムの人生を知り、父から渡された神様の約束と祝福のバトンがどれ程の重みを持ったものなのかを知る事が出来たのです。

戦後貧乏な生活をして、お金で苦労した人たちが、自分の子供には同じ苦労をかけたくないといって、お金にだけは不自由しないように欲しいだけ与えてきました。
その結果どのようなことが起こりましたか?
お金を与えてくれている親に感謝するどころか、お金があるのは当たり前のこととしか考えられなくて、自分では働かない、働けない、自分のやりたい事しかできない若者が日本にはあふれているではありませんか? これと同じ事が霊的にも起こりうるのです。

私達が全ての疑問に答えることが、次の世代の子供たちのためになるわけではありません。
信仰を持つ上でのあらゆる障害から守られることが、信仰への近道とはなりえません。
むしろ私たちと同じ道を通り、同じ事で悩み、苦しみ、痛い思いをして初めて神様の恵みを心から感じる事ができるはずです。
私達は子供たちが直接神様と出会う機会を、むしろ奪ってしまってはいないでしょうか?

何のことはない。これは私たち自身にもそのまま当てはまる事ですね。
私達がどれだけ聖書の勉強をして、聖書のことやキリスト教の教えに詳しくなっても、神様を経験していなければ信仰を持つ事はできません。
クリスチャンになってからも、神様の御顔を仰ぐことなく生きていれば、霊的な成長をする事はできないのは当たり前の事です。
アブラハムの信仰によって、神様の祝福は家庭にもたらされましたが、イサクが個人的に神様を見出さない限りそれを祝福としては味わう事ができないのです。

③ 埋められた井戸
アブラハムが死んだ後、そこには祝福が残されたはずでしたが、祝福はペリシテ人たちの嫉妬を買い、アブラハムの時代の井戸が片っ端から埋められていくという事件が起こりました。
この出来事を、イサクの自己中心的な視点だけから見れば、父親の信仰が周りに敵を作り、トラブルと苦労を増やしただけのように感じられたかもしれません。
しかしイサクは、そのような時にどうやって対処したらよいかということを知っていました。

26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。

埋められた井戸は、もう一度掘り起こせばよいのです。
私達にはどの様に当てはめる事ができるでしょうか?

ヨハネ 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

イエス様によって与えられた井戸から飲むものは、決して渇く事がない、永遠のいのちの水が湧き出る井戸です。
命の水が尽きない井戸、それが私たちに与えられている井戸を、私達は先輩のクリスチャンから代々受け継いできているのです。
その井戸を、私たちの敵、悪魔が埋めてしまうのでそのままでは飲む事ができない。
私達にはもう、井戸は与えられているのに、尽きない命の水を飲む事ができない。
しかし、悪魔によって埋められてしまった命の水があふれる井戸を、私達はもう一度掘り返すことができるのです。

その井戸を掘り起こすのは、イサクの仕事です。
アブラハムの仕事ではありません。
埋められた井戸を掘り起こす事は大変な作業ですが、このような試練こそがイサクを成長させるのです。

当てずっぽうに無駄に努力して掘り続ける必要などありません。
いや、むしろ適当に掘り進む事によってイエス様の命の井戸にたどり着く事は絶対にありません。
しかし私達が全てを主に委ねるなら、聖霊が掘るべき場所を教えてくれるでしょう。
皆さんが必要に応じて井戸を掘り当てる事ができますように、また、私たちの次の世代の方々が見誤ることなく、聖霊の助けによって井戸を掘る事ができるように祈りましょう。
それが私たちに出来る最善の事だからです。

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