黙示録1:1-3 『①読む者に幸いを与える黙示録 』2011/09/04 松田健太郎牧師

黙示録1:1~3
1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

今日から黙示録のシリーズが始まります。
教会の中でも、またネットでメッセージを聴いて下さっている方からも、楽しみにしているという声をいくつかお聞きしました。
このメッセージをする事になったのは、僕が神学校で講義を担当する事になったという個人的な理由が大きいのですが、今多くの人達が必要としているメッセージだとも思うんです。

3月11日に、わたし達は大きな地震を経験し、多くの人の心に“この世の終わり”という想いがよぎりました。
5月21日にイエス様の再臨があるという牧師がアメリカでニュースを賑わせ、マヤのカレンダーを根拠に多くの人が2012年に世界が滅ぶと信じています。
多くの人がこの世の終わりを感じていて、興味を持っています。
だからこそ、聖書が終末についてどのように語っているかを知る事は、とても大切な時なのではないかと思うんです。

① 黙示録は怖い?
黙示録に関しては、ふたつの極端な反応があります。
ある人達は黙示録が大好きで、黙示録ばかり読んでいます。
その一方で、聖書の他の個所は読んでも、黙示録はほとんど読まないと言う人もいます。
僕はバランスというものが大切だと思うので、どちらの極端もよくないなぁと思ってしまうのですが、黙示録というのは好き嫌いが両極端にわかれてしまうものなんですね。
それは、黙示録が無視する事ができない程に強烈なメッセージを伝えてくるからではないかと思うのです。

ある人が拒絶的な反応を起こしてしまうのには、これまたふたつの否定的な要素が黙示録にはあるからです。
それは第一に、黙示録は怖いという印象を持ちやすいという事です。

黙示録には悪魔が出てきます。
また竜が出てきたり、たくさんの人達が死んだり、大きな迫害が起る事も書かれています。
更には神の裁きについて書かれているので、怖いというのは当然の事なのかもしれません。
黙示録は、確かに怖い部分があるんですね。
しかし、「怖いから読まない」という事になってしまうのであれば、それはとても残念な事です。
黙示録には、このような文章があるんです。

1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

黙示録を読む事は、わたし達にとって幸いなんです。
こんな言い方、聖書のほかのところには出てきませんよ。
黙示録は特別なのです。
黙示録はわたし達クリスチャンにとって希望の書であり、喜びをもたらすために書かれている事を皆さんに知っていただきたいと思うのです。
でも、怖い部分ばかりが目に付いてしまうんですね。

さて、黙示録には、それとは別の怖さもあります。
ある先生が黙示録から説教のシリーズをしようと思い立った時、教会の何人かの方々は、教会がカルト化してしまうのではないかと恐れたという話を聞いた事があるんです。
黙示録を読んでいると、信仰がおかしなことになってしまうのではないかという怖さがあるのだと思います。

確かに、カルト的な教会が好んで黙示録の話をし、信徒を恐怖によって従わせようとする傾向はあるようです。
さらに黙示録は、オカルトの雑誌やテレビ番組で積極的に取り上げられ、キリスト教の信仰も持っていない人達がまことしやかな解釈をして世間を怖がらせ、あるいは失笑させてきたという事もありました。
先に上げた、黙示録ばかり読むタイプの方々の中には、このような人達がたくさんいるのも事実です。
しかし、だからこそ黙示録は、正当な信仰の元で話されなければならないのです。
勇気を出して、この黙示録を一緒に読んで行っていただきたいなぁと思います。

② 黙示録は難しい?
黙示録がもつもう一つの否定的な要素は、黙示録が難しい本であるという事だと思います。
黙示録を自分で読んだほとんどの人は、「さっぱり意味が分らない」という反応だったのではないかと思います。

黙示録は象徴的な表現が多く、何を意味しているのか、すぐにはわかりません。
だから色々な解釈ができ、時によってその解釈の違いが教会の分裂さえ起こしてきました。
頭のいい牧師や神学者が読んでも意見が分かれるようなものなのに、自分が読んで理解できるはずがないという意識を、実に多くの方が持ってしまうのです。

黙示録という本は、どうしてこんなに分りにくいのでしょうか。
まぁ、旧約聖書の頃から預言書というのは理解するのが難しいという事は当然と言えば当然なのかもしれません。
しかし、黙示録を読んでいけば分る事ですが、黙示録は単なる預言書ではありません。
この書は、ある教会の人達に宛てた手紙でもあるのです。
そう考えると、もうひとつの理由が考えられます。

それは、この当時キリスト教が大きな迫害の中にあったという事が原因だという事です。
この黙示録が書かれたのは、ドミティアヌス帝の時代だったと言われています。
ドミティアヌスという皇帝は、自分を神としてローマ市民に崇めさせ、自分の事を“主”と呼ばせました。
そして自分を神として崇めない者を残酷な形で処刑させたのです。
クリスチャンは神様以外を絶対に“主”とは呼びませんでしたから、彼らはクリスチャンであることが分ればすぐに捕えられ、拷問にかけられた上に処刑されました。
ヨハネもそのような形で捕えられ、パトモス島に監禁されていたのです。

そのような中、この黙示録は7つの教会に手紙として送られました。
しかし、彼らを迫害していたローマ帝国にこの手紙の内容を知られるわけにはいかなかったのです。
だから黙示録は、分るべき人にはわかり、分らない人にはさっぱりわからないようにできています。
クリスチャンではない人にはわからないように、しかしクリスチャンにはわかるように・・・。

黙示録を理解するためのヒントは、実はすべて聖書の中にあるのです。
オカルト研究者たちのように、闇雲に黙示録だけを読んで理解しようとしても、それはできるものではありません。
わたし達も黙示録を読む時には、他の聖書箇所に書かれている事と照らし合わせながら理解していく必要があるんですね。
ですからこのシリーズでは、なるべく多くの聖書箇所を開いて参考にしながら、それぞれの個所が意味している事をなるべくわかりやすい形で読み解いていきたいと思います。

③ 黙示録が書かれた目的
そもそも、黙示録は何のために書かれたのでしょうか?
実は、その部分の理解が間違っているために、黙示録への誤解が増えてしまうのではないかと思うのです。
黙示録は、秘密のコードを解読すればこの世の秘密がわかるような、禁断の書物として書かれたものではありません。
黙示録は、わたし達の未来に起る事を書いて、わたし達を感心させるために書かれたものでもありません。
この黙示録が、クリスチャン大迫害のさなかに、危険を冒してでも聖書の最後の書として付け加えられたのは、クリスチャンの信仰の確信を強め、世界に送り出すためです。

福音は、全ての人に伝えられなければならないのです。
例え命の危険があっても、例え幸せな生活に背を向けなければならなくなったとしても、福音を伝え続けなければならない時があります。
当時のローマ帝国はまさにそのような状況でした。
その大きな波乱に備え、絶望に打ちひしがれそうなクリスチャンを励まし、しかし絶望の先に必ずある希望に目を向けさせて力を与える事こそ、イエス様がこのビジョンをヨハネに与えた理由なのです。

現代の日本にいるわたし達には、信仰の自由が約束され、クリスチャンだからと言って命が脅かされるなどということはありません。
しかし、宗教の人として変な目で見られるんじゃないか、あるいは人から嫌味を言われたり嫌われるというほんの小さな迫害を恐れて、福音を伝える事ができなくなるのがわたし達です。
命の危機に直面するような迫害の中にいる人達より、わたし達の方が弱々しく、より多くの励ましを必要としているのは皮肉な話です。
黙示録はわたし達のような者にももちろん力を与えてくれます。
なぜ、この怖い黙示録が、わたし達に力を与えてくれるなんて言う事ができるのでしょうか?

黙示録には、確かに神様の裁きが書かれています。
終末について、多くのページを割いている事も確かです。
それでもなお、この黙示録のテーマはそれとは別にあるのです。
それは、この黙示録の一番最初の言葉に表されています。

イエス・キリストの黙示。
これは、イエス・キリストがヨハネに与えた啓示であると同時に、イエス・キリストの事を描いた啓示でもあります。
イエス・キリストこそが、黙示録の最大のテーマなのです。

黙示録は、イエス様をふたつのイメージに基づいて描写しています。
それは、ひとつには王の王であり主権者、裁き主である 獅子としてのイエス様。
そしてもうひとつは、救い主であり、愛を持ってわたし達の友のなって下さる、小羊としてのイエス様です。
そのふたつの相反すると思えるイメージが、黙示録の中で重なっているのです。

黙示録を読んでいると、わたし達はついつい裁く主としての怖い印象ばかりに囚われてしまう傾向があるかもしれません。
しかし、わたし達の主イエス様は、それ以上に愛の方である事を忘れてはなりません。
わたし達は確かに罪人であるけれど、そんなわたし達のためにイエス様は十字架の上でその命を投げ出し、わたし達の代わりに罪の支払いをして下さったのです。
その愛は、決して変わる事がありません。
昨日も、今日も、明日も、イエス様は変わらぬ愛でわたし達と共にいて下さるのです。

誰もがその愛と救いを受ける事ができます。
その救いはすでにわたし達の前にあって、わたし達がそれを受け取りさえするならば、わたし達は主に与えられた新しい命に生きるようになるのだと、聖書は教えているのです。
黙示録の中のどこにそのような愛が描かれているのかという事と、それがわたし達にとってどういう意味を持つかという事に関しては、これからゆっくり考えて行きましょう。

これからの黙示録のシリーズは、短くても半年くらいはかかるだろうと思います。
このシリーズの学びを終える時、この教会に集う皆さんの黙示録に対する印象が少しでも変わっていると良いなぁと思います。
皆さんが、「黙示録はおもしろい。」と言えるようになる事を、僕はひとつの目標にしたいと思っています。

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