I列王記6:1-14 『ソロモンの神殿建築』 2011/01/23 松田健太郎牧師
I列王記 6:1~14
6:1 イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった。
6:2 ソロモン王が主のために建設した神殿は、長さ六十キュビト、幅二十キュビト、高さ三十キュビトであった。
6:3 神殿の本堂の前につく玄関は、長さが神殿の幅と同じ二十キュビト、幅が神殿の前方に十キュビトであった。
6:4 神殿には格子を取りつけた窓を作った。
6:5 さらに、神殿の壁の回り、つまり、本堂と内堂の回りの神殿の壁に脇屋を建て増しし、こうして階段式の脇間を造りめぐらした。
6:6 脇屋の一階は幅五キュビト、二階は幅六キュビト、三階は幅七キュビトであった。それは、神殿の外側の回りの壁に段を作り、神殿の壁を梁でささえないようにするためであった。
6:7 神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。
6:8 二階の脇間に通ずる入口は神殿の右側にあり、らせん階段で、二階に上り、二階から三階に上るようになっていた。
6:9 彼は神殿を建て、これを完成するにあたって、神殿の天井を杉材のたるきと厚板でおおった。
6:10 神殿の側面に脇屋を建てめぐらし、その各階の高さは五キュビトにして、これを杉材で神殿に固着させた。
6:11 そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。
6:12 「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。
6:13 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」
6:14 こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成した。
先週は、ソロモン王の最大の特徴でもあるソロモンの知恵についてお話をしました。
今日は、ソロモンが作った神殿について一緒に考えて行きたいと思います。
もともと、この神殿はソロモンの父であるダビデが作りたいと思っていた神殿でした。
「自分は杉材の家に住んでいるのに、主の住まいが粗末なままでいいはずがない。」というのが、ダビデの思いだったのです。
しかし、神殿を作る役目はダビデではなく、その子供であるソロモンに与えられていたのです。
列王記の著者は、この様な言葉で神殿の建築を書き始めています。
6:1 イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった。
ただ“ソロモンが王になってから4年目”と書けば良さそうなものですが、列王記の著者は、イスラエルがエジプトを出てから480年目という言葉から始めました。
それは、この神殿建築が、ただダビデやソロモンの思い付きではなく、神様の計画の中に大切なものとして存在していたという事を表しています。
そして、イスラエルはここでひとつの節目を迎え、新たな時代への一歩を踏み始めた事を意味しているのです。
今日は、神殿がイスラエルにとってどうして大切なのかという事。
そしてこの神殿建築が、イスラエルだけでなく、わたし達とってどのような意味をもつものなのかという事を共に考えて行きましょう。
① イスラエルのとっての神殿
まずは神殿の大きさを見てみましょう。
それぞれ長さ26.7m、幅が8.9m、高さが13.3mという細長く、3階建てから4階建てくらいの高さがある建物です。
そう考えると、そんなに大きな神殿ではありませんね。
ちょっと郊外に行けば、これ位の家に住んでいる人も普通にいるんじゃないでしょうか。
神殿というのは、例えば教会堂とはまったく違うものです。
教会堂は人が集まって礼拝する場所ですから、たくさんの人が入るために大きくなければなりません。
でも、神殿というのは人が入らないのです。
そこは、神様の場所であり、むしろ人は入ってはならない場所です。
神殿の中にはさらに聖所、至聖所という場所があって、至聖所には年に一回、大祭司だけが入る事を許される場所でした。
人々は神殿の中ではなく、神殿の外庭でいけにえを捧げ、礼拝をしたのです。
他の宗教にも、神殿のようなものがあります。
日本にも神社やお寺がありますね。
神殿とはそれと同じじゃないかと思われる部分もないわけではありません。
しかし、この神殿が他の宗教とは全く違う事がひとつあります。
それは、神殿にはご神体のようなものがないという事です。
神社にもお寺にも、ご神体と呼ばれる、拝む対象となる物があって、人々はそれに対して拝むわけです。
しかし、神様は偶像を嫌っているのですから、神殿の中にそのようなものはありません。
至聖所には契約の箱という物が置かれていましたが、それが拝まれていたのではなく、それもまた神様の臨在を表す象徴でしかありません。
神殿を指して“神の家”という言い方をしたりもするのですが、神殿の中に神様が住んでいるという訳でもありません。
それは、神殿を建てたソロモン自身も言っているんです。
I列王記 8:27 それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
では何なのかと言えば、神様はイスラエルと共にいるという事の象徴なのです。
神殿の完成を前に、神様はソロモンにこのように言っています。
6:12 「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。
6:13 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」
神殿があるから神様が共にいるのではなく、ソロモン達が神様に従って生きるなら、神様は共にいるのだと約束しました。
この神殿はその証であり、約束のしるしなのです。
しかし、イスラエルは神様の道を歩み続けず、やがて神様を離れ、そのために異邦人によって攻め込まれ、民族はバラバラになってしまいます。
捕囚によってちりぢりになったイスラエルの人々が帰還した時、壊された神殿を作り直しますが、その時には神様の臨在はなく、かつての神殿を知っている人々は涙を流して嘆いたという事が聖書には書かれています。
それは、神殿から神様がいなくなってしまったという事ではなく、神様から離れたイスラエルの霊的な状態を表していたのです。
② わたし達のとっての神殿
じゃあイスラエル人ではないわたし達にとっては、神殿はどういう意味をもつのでしょうか?
それを知るために新約聖書をいくつか開いて見ましょう。
まずは、イエス様がこのように言っています。
ヨハネ 2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
イエス様は、ご自身を神殿と呼ばれていたのです。
しかし一方で、こういう言葉もありますね。
Iコリント 3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
神殿はイエス様の事なのですか、それともわたし達の事なのですか、それは両方ですね。
イエス様も、わたし達も、神の神殿の一部なのです。
イエス様のこの言葉が理解のヒントになるかもしれません。
マタイ 21:42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
礎の石というのは、建物を建てる時の土台となる、もっとも重要な石の事です。
つまりわたし達は、イエス様という礎の石を土台とした、ひとつの神殿なのです。
かつて神殿は、神様が共におられるという事をシンボルとして表していましたが、今はわたし達ひとりひとりを神殿として、もっと直接的にわたし達と共にいて下さっているのです。
だからわたし達は、建物としての神殿は作りません。
また、旧約聖書の律法に従うなら、礼拝のためには神殿でいけにえを捧げなければなりませんが、わたし達には神殿もいけにえも使いません。
なぜなら、わたし達自身が神殿であり、イエス様が最後のいけにえとなって、罪の贖いを完成して下さったからです。
象徴なんてものを、もうわたし達は必要としていないのです。
③ わたし達が神殿であるということは
さて、わたし達自身が神殿なんだという理解に立った時、かつて象徴として建てられた神殿の記述は、ただ建物が建てられたという話ではなく、もう少し意味のある言葉として響いてきます。
ただ一つ注意しなければならないのは、イエス様を礎とした神殿なのだという時、わたし達ひとりひとりが完成した神殿という事ではないという事です。
エペソ 2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
イエス様が礎の石であるように、わたし達ひとりひとりは神殿を構成する石なんです。
教会という集まりが神殿だという事ができるでしょう。
いや、全てのクリスチャンが集まってひとつの神殿となる、と言った方がいいのかもしれません。
この神殿を構成する石は、自然石を積み上げたのではなく、切り出され、加工された石が使われていると書かれていました。
という事は、わたし達は神殿の一部となるために不必要な部分が切り落とされ、削られていかなければならないという事です。
その経験は時として、わたし達にとって痛くて辛い経験かもしれません。
加工されたそれぞれの石は、決して同じ形をしていません。
大きさも形もバラバラではあるけれど、だからこそ組み合わされた時には丈夫な壁となるのです。
そして組み合わされた石というのは、どれひとつ抜いても崩れてしまいます。
わたし達ひとりひとりの存在は、いてもいなくてもわからないようなものなのではなく、誰ひとり欠けても成り立たないのだという事です。
大きい石が重要なのではなく、形の良い石が素晴らしいのでもなく、石が合わさった時に初めて目的を果たします。
そしてそれぞれの石に意味があり、重要なのです。
しかし、わたし達が少しドキっとする事もあります。
6:7 神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。
石切り場で設計の通りに切り出され、完璧に整えられた石は、ムリにたたいたり押し込んだりしなくてもピタリとおさまって行きました。
今は切り出されたばかりで、加工されている途中段階のわたし達・・・。
わたし達はイエス様の再臨の時、ひとつに合わされて完成するわけですが、果たしてわたし達は、ソロモンの神殿建築のようにピタリとおさまるようになるのでしょうか?
今のわたし達自身を見る限り、わたし達は簡単には合わさらず、大きな音を立てるのではないでしょうか?
いやそれどころか、当てはまる事すらできないのではないかとさえ思えます。
それでもわたし達がそこに招かれ、神殿を構成するひとつの石として選ばれているのは、神様の恵みに他なりません。
わたし達を完成させるのは、わたし達自身の力では不可能です。
しかし、主がわたし達を整えて下さるので、わたし達は主の業のかけがえのない存在として、そこに当てはまる事ができるのです。
ソロモンが建てた神殿は、500年と経たずに破壊されてしまいました。
しかし、わたし達という神殿は永遠の神殿です。
そこにどのような素晴らしい神殿が誕生するのか、わたし達は楽しみにその時を待ちたいものです。