『 Messy Church ③ 愛で結ばれた教会 』 2012/09/16 松田健太郎牧師
「わたし達の教会は、Messy Churchです。」という話を、これまで2週間の間にしてきました。
Messy Churchの“Messy”という言葉は、きたないという意味の英語で、きたない教会とう事です。
でもそれは、掃除をしていないとか、散らかっているという事ではないんです。
新品の家は、傷や染みによって生活感となり、味のある我が家へと変わって行きます。
汚れとともに、House(家)がHome(家庭)になって行くのです。
わたし達、主にある家族としての教会は、キレイごとではなく問題もたくさん起ります。
でもそれは、貼りついた笑顔や、偽りの平和ではない、本当に心を開く事ができる空間だからこそ起る、生活感のある染み、味のある傷です。
そのような関係を築き上げていくためには、団らんが必要だという話も先週しました。
私たちは一緒に食事をする事を通して、体と心を満たされます。
そして、魂の食事である聖書の言葉に耳を傾け、礼拝という家族の団らんの時を共にする事を通して、一緒に成長していくのです。
ステキだな、素晴らしいな、教会が本当にそういう場であって欲しいなとわたし達は思う訳ですが、それは一筋縄で行くような事ではありません。
なぜでしょう?
それは、教会という家族を構成するわたし達ひとりひとりに、罪の性質があるからです。
今日は、私たちがそのような家族としての教会を築き上げて行く中で、起ってくる問題を考えながら、どのようにしたらいいのかという対策も共に考えて行きたいと思います。
① 個として独立し、しかし親密な関係を築く
わたし達、特に日本人が、人間関係の中で苦手とする事のひとつに、お互いの距離感の問題があります。
一般的に、日本人はお互いの距離を大きく持ち過ぎて、なかなか仲良くなれないという傾向があるようです。
これは島国の特徴の一つなのか、イギリスの文化にも同じような問題があると聞きます。
フィリピンや台湾、ニュージーランドなどはどうなのでしょうか?
関係をさらに複雑にしているのは、話し言葉の問題です。
日本語には敬語があるので、初めて会った人には大体敬語で会話をします。
しかし、敬語で話す関係は、お互いにまだ遠慮がある関係なので、そのままでは深いところまで話しあう事が難しかったりします。
お互いに挨拶を交わすという程度の他人行儀な関係から、信頼して色々な話しができるようになるまで、私たちはたくさんのハードルを飛び越えなければならないようです。
一方で、一度関係を深めると一気に自分と他人との境目がなくなって、べったりとした共依存的関係になってしまうのも日本人が抱えている人間関係の特徴のひとつです。
自分と他人との境目がないとどうなるかと言うと、ひとつには他人の事に何でも干渉してしまうようになります。
人にはそれぞれのやり方や、生き方があるはずなのに、違いを受け入れる事ができず、自分と同じでなければおかしいと決めつけ、人の人生に余計な口出しをするようになるのです。
神様は、私たちをそれぞれユニークな、ひとりしかいない存在として創造してくれました。
個性も違えば、役割も違うのです。
わたし達は、そのような互いの違いを尊重し合う必要があります。
自分と他人の境目がなくなった時に起るもう一つの問題は、先ほどとは逆に、自分では何も決める事ができなくなってしまうという事です。
わたし達は、いつでも周りの目を気にしながら、隣の人と同じ事をしていなければならないように感じてしまう傾向があります。
しかし神様は、私たちが人と同じようにする事を求めているのではなく、自分自身である事を求めているのではないでしょうか?
確かに、聖書にはこの様に書かれています。
ピリピ 2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
でも、ここに書かれている一致とは、私たちが画一化し、同じような存在になる事ではありません。
それぞれ別の役割を持った別の存在として生きながら、一つの体として繋がるという事です。
ドとミとソという別々の音が重なって初めてハーモニーが生まれるように、別々の存在であるわたし達がひとつにつながった時に、そこにはわたし達の力だけでは生む事の出来ない新しいものが生まれてくるのです。
三位一体の神様の関係を考えてみてください。
神様は唯一ひとりの神ですが、父・子・聖霊という別の人(神)格を持っています。
唯一の神として一体となる関係を持っているけれど、父・子・聖霊という別々の人格が混ざり合うことなく、独立して存在しています。
わたし達も、そのような関係を築く事が求められているのです。
② 愛する事の難しさ
しかし、わたし達が、“個”としてちゃんと独立した状態でありながら、それでも深く交わりを持って行く事は、時として大きなチャレンジです。
なぜなら、私たちは自分と自分とはタイプの違う人を愛する事が難しいからです。
いっそ距離を置いて関わらなかったり、自分の価値観を押し付けていた方が楽なのです。
例えば私たちは、自分と同じ価値観を持っていたり、同じようなタイプの人を愛する事は難しくありません。
自分と似ている人を仲間として好きなのは、ある意味当たり前の事です。
でも、皆同じ価値観を持っているわけではなく、違う性質を持っていて、違う興味、違う意見を持っている人達もいます。
それは、同じ神様に繋がっているひとつの家族であってもそうなのです。
そのような、自分とは全くタイプの違う人を愛する事は、とても大きなチャレンジとなりうるのです。
なんでもテキパキこなすタイプの人にとっては、マイペースでのんびりと生きている人がじれったくなるのではでしょうか。
秩序を重んじる価値観の人にとっては、自由を愛する人達と一緒にいる事が辛いかもしれません。
繊細な心を持った人達は、大胆な性格の人達を信じがたいと感じるでしょう。
両者が持っている常識は違いますが、どちらが悪いわけでもありません。
しかし、正反対の性質を持った二人の間には、お互いに苦手意識が生まれてしまうのです。
そんな風に価値観や性質の違う人達同士が、親友のように仲良くならなければならないと言っているわけではありません。
でも、互いが家族の一員である事を信じて、必要な時には協力して一つの事をなして行く必要が、私たちにはあるのです。
イエス様は使徒としてどのような人達を選んだでしょうか?
漁師もいれば、収税人もいる。過激派のテロリストだった人もいる。
情熱的な人もいれば、のんびりした人もいる。疑い深い人もいる。
みんなそれぞれ違う個性を持っていて、普通ならひとつのグループにはならなかったのではないかと言う組み合わせだったりします。
イエス様はそんな、個性的な人達をひとりひとり選んで、使徒としたのです。
この教会に集うわたし達も同じではないでしょうか?
わたし達も、自分の好みや行動だけで考えたら、知り合う機会なんてありえないような人達の集まりだと思います。
そんなわたし達が、神様によって集められて、ひとつの家族となったのです。
そんな
バラバラなわたし達を、神様が愛によってひとつして下さるのです。
コロサイ 3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
③ 神様の愛を想う
理屈では愛する事が正しいとわかっていても、愛する事がどうしても難しい時もあります。
そんな時には、神様がどのような愛でわたし達を愛して下さったのかと言う事を、もう一度思い出してみていただきたいのです。
神様はもともと、私たちをご自身に似た者として創られました。
しかし、私たち人間は神様の愛から離れ、私たちの中には罪と言う不純なものが入り込み、神様とは似ても似つかない者となってしまいました。
自己中で、罪にまみれ、神様から愛されていてもその愛に気が付きもせず、分っていても無視し、都合の悪い事は何でも神様のせいにするわたし達。
神様への感謝の気持ちはすぐに忘れてしまうし、神様から受けた恩はことごとく仇で返すわたし達。
愛しやすさから言えば、神様にとってわたし達は、愛しがたい存在となってしまった事でしょう。
しかしそんなわたし達を、最も愛するひとり子、自分の最も大切な一部である御子イエス・キリストを犠牲にしてまでも、救おうとして下さったのです。
神様がどれだけわたし達を愛しているかを知る手段があるとしたら、これこそ神様の愛の大きさを表している出来事ではないでしょうか?
聖書はこう言います。
Iヨハネ 3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
こんなわたし達のためにイエス様は、自分を捨ててわたし達を愛して下さったのですから、わたし達も自分自身に死んだ者となって、主義や主張、価値観や性質は脇に置いてでも、わたし達の家族を愛する事ができるのです。
天には、たくさんの宝が積まれています。
神様が与えて下さった、その宝の数々を数え上げて下さい。
それこそがわたし達が人を愛する、力の源なのですから。