『 Messy Church ④ 絶える事のない愛の教会 』 2012/09/23 松田健太郎牧師
わたし達の教会は、Messy Churchです。
これまでそのようにお話をしてきましたが、Messy Churchという概念はそろそろ皆さんの中に定着してきたでしょうか?
同じことの繰り返しになりますが、今日始めて聴く方も、まだ良くわからないと言う方もいらっしゃると思いますので、もう一度Messy Churchとはどういうことなのかをお話しておきたいと思います。
Messy Churchの“Messy”という言葉は、きたないという意味の英語で、きたない教会とう事です。
でもそれは、掃除をしていないとか、散らかっているという事ではなくて、わたし達は罪びとの集まりなので、問題もたくさんあるし、綺麗ごとだけではない部分もいっぱいありますよねというお話です。
そう考えると、本当はわたし達だけがMessy Churchなのではなくて、本来すべての教会はMessy Churchなんだと言うことがわかってくると思います。
でも、すべての教会がそれを認めることができるわけではない。
時としてわたし達は、Messyな部分は、包み隠してしまいたくなるからです。
しかし、わたし達には傷があり、染みがあり、問題があるんだという事を認めることができたとき、そこに始めて見えてくるものがたくさんあります。
わたし達の教会は、それを認め、お互いに愛し合い、赦しあうことのできる関係でありたいですねと言うのが、これまで3週間の間にお話してきたことのまとめです。
さて、先週は特に、わたし達がMessyである事を認める教会となるために起こる難しい課題についてお話しました。
それは具体的には、人間関係を築くことの難しさです。
特に日本人であるわたし達とっては、心を開き、しかしお互いの境界線は保ったまま、違う価値観や性質を持った人たちを愛することは簡単なことではありません。
今日からしばらくの間、「じゃあ、私たちをつなぐ“愛”とは何なのか?」という事を、一緒に考えていきたいと思うのです。
① 愛がなければ
みなさんは、クリスチャンにとって最も大切なことは何だと思いますか?
私たちが、クリスチャンとして成長していくということにおいて、最も大切な要素は何でしょう?
毎週、教会に行って礼拝を守るということでしょうか?
ひとりでも多くの人たちに伝道するという事でしょうか?
断食をして熱心に祈ることでしょうか?
聖書の話をよく勉強し、教義や教理にも精通する事でしょうか?
あるいは、たくさん奉仕をしたり、善い行いをするという事でしょうか?
信仰によってたくさんの奇跡を体験し、素晴らしい生活を送ることでしょうか?
それはどれも、クリスチャンに大切なこととして間違えていないし、確かに大切なことだと思います。
でも、決定的に大切なこととは違うのです。
聖書にはこのように言われています。
Iコリント 13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
これって実は、とてもショッキングな言葉ではないでしょうか?
異言で祈ったり、奇跡的な体験をたくさんしたとしても、そこに愛がなければ神様には何の意味もないと言われているのです。
神学校で学び、どんなにたくさんの聖書の知識を持っていたとしても、どんなにわかりやすい例話を用いて、感動的な話をする事ができたとしても、それによってどれだけ熱心に伝道して人々を導いたとしても、そこに愛がないなら何の値打ちもありません。
貧しい人たちにいろいろなものを分け与え、どんなに優しく接してあげたとしても、そこに自分の命を掛けたとしても、そこに愛がないなら何の役にも立ちません。
「愛がなければそういう行いはできないのではないでしょうか?」と思うかもしれませんが、聖書は私たちが、愛なしに善い行いをすることができると指摘しています。
その行いは、それをしなければ神様から愛されないという恐れから来ているかもしれないし、しなければならないという義務感からかもしれないし、自分はこんなにしてやっているんだというプライドや対価を求めての行いかもしれません。
やっている事は一緒でも、あるいはそっちの方がより多くの成果を上げることができたとしても、「愛がないなら無意味だ。」と、神様は私たちの行いを一刀両断にしてしまいます。
② 愛は絶えることがない
では、愛とは一体どのようなものなのでしょうか?
それはゆっくり、来週からしばらくの間をかけて考えていきたいと思います。
しかし、今日はそのさわりの部分だけでも一緒に考えましょう。
聖書はこのように言っています。
Iコリント 13:8a 愛は決して絶えることがありません。
Iコリント 13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
愛は決して絶えることがなく、いつまでも残るものです。
でも、私たちが愛というものを勘違いしていると、それが絶えることなく続くものだとは信じることができません。
皆さんは、どのように思われるでしょうか?
愛というものに関して、私たちが勘違いしてしまうのは、愛を感情だと思い込んでしまうことです。
確かに、恋愛という感情を表す言葉には愛が付きますし、恋愛と愛は違います。
“誰かを好きである”という感情と、“愛”とは別のものなのです。
感情というものは、心という水の上に石を投げるとできる波紋のようなものです。
そこに何が起こるかによって、感情は変わります。
そして、特定の感情は、なくなってしまうこともあります。
感情がどのように動くかということは、自分が自由に選ぶ事もあるのです。
これが愛だとしたら、絶える事もある事になってしまいます。
しかし、愛は絶えることがなく、いつまでも残るものです。
なぜなら、愛とは勝手に出てきて勝手になくなるものではなく、私たちが決意をもって選択するものであり、そこに生まれる特別な絆だからです。
多くの母親は、我が子に対して自然に愛を発揮することができるようです。
子供がオムツを汚して面倒をかけても、自分の自由を奪ってしまう大変な存在であっても、それによって見捨ててしまうのではなく、愛し、面倒を見続けます。
時には怒りや悲しみ、がっかりするような感情によって揺らいでしまうこともありますが、それでもつながり続け、注ぎ続けられるのが愛なのです。
③ 神の愛で愛し合う
日本人の人間関係は、一度傷がつくと修復するのが難しいと言われます。
それまでは仲が良かったのに、たった一度争いが起こっただけで、二度と心を開くことができなくなってしまったりします。
それは、私たちの人間関係が感情に依存しているからです。
好きか嫌いかという感情だけで人を結びつけていると、傷が入った時にそれを修復する術もないし、そもそも修復しようというモチベーションもありません。
好きであれば関係があるし、嫌いになったらその人はもう自分と関係がないからです。
だから男女の関係もくっついたり離れたりを繰り返すし、子供ができて結婚してもそれに耐えることができずに簡単に離れてしまいます。
このような人間関係は、自分本位なので確かに楽ですが、やがて“愛”というものがわからなくなってしまうでしょう。
そうすると、私たちは神様からの愛も同じように考えてしまいます。
常に神様のご機嫌を伺っていないと、愛を失ってしまうかもしれない。
私たちに飽きて、愛がなくなってしまう事もあるかもしれません。
だから、自分が本当に救われているのかどうかがわからない、という事になるのです。
でも、そういうものではないはずです。
神様は、イスラエルに対して怒っている時でも、また悲しんでいる時でも、いつでもイスラエルを愛し続けました。
人々は何度も神様に背を向けて逆らい、偶像を愛したりしましたが、神様は決して彼らを見捨てませんでした。
悔い改めて戻ってきた時には、放蕩息子を迎える父親のように、いつでも、何度でも我が子として迎え入れました。
神様は、私たちのことも、同じようにして愛し続けています。
愛とは、選択と決意から始まります。
そして、絆として永遠に残っていくものとなるのです。
イエス様はこのように言います。
ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしかすると私たちは、本当の愛というものを知らないでここまで生きてきたかもしれません。
無条件で、絶える事のない愛など、経験したことがなかったかもしれません。
しかしまずは、神様の愛がそのようなものであることを知っていただきたいのです。
私たちは、今自分が知っているものによって神様の愛を計るのではなく、そのまま神様の愛を受け取ることによって、本当の愛を体験する必要があるのです。
そして、私たちが無条件の、絶える事のない愛によって愛されていることを知るなら、次はその愛でお互いを愛していきましょう。
それこそ、私たちが家族であるということの証であり、Messyな協会には必要な絆だからです。