マタイ22:37-39 『キミは愛するために生まれた』 2019/3/17 松田健太郎牧師

マタイ 22:37-39
22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

聖書の中で、最も大切な命令はこの言葉だというのが、今日の聖書箇所の言葉です。
神さまを愛することと、隣人を愛することですね。
神さまがイスラエルの人々に与えた律法は、すべてこの言葉に集約することができるといわれています。
今日は特に、第2の戒めと書かれている「隣人への愛」について考えていきたいと思います。

皆さんは、オキシトシンというホルモンをご存知でしょうか?
1906年にヘンリー・デールというイギリスの脳科学者によって発見されました。
発見された当初は、陣痛を早めたり、射乳を促す物質として知られていましたが、次第にさまざまな効果を持つホルモンであることが判ってきました。

オキシトシンが脳内で分泌されることによって、人はリラックスし、幸せな気分になり、不安や恐怖心が減少し、免疫力が上がり、学習意欲を上げ、社交的になり、心臓の機能が上がって、血行が良くなります。
他にも様々な働きをしていて、日本でも「幸せホルモン」や、「愛情ホルモン」として知られるようになってきました。

このホルモンは、スキンシップしたり、誰かと親密な時間を一緒に過ごしたり、おしゃべりしたり、共同作業することによって分泌されます。
そして、私たちはそれによって不安が薄まり、幸せを感じることができるのです。
素晴らしいホルモンですね。

神さまは、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する」ことと、「隣人をあなた自身のように愛する」ことを私たちに命じました。私たちが愛し合うことがどれほど大切なことであり、それが私たち自身の幸せにも繋がっていることが証明されたように感じます。

ところが、オキシトシンには別の働きもあることが判ってきました。
オキシトシンは他人に対する嫉妬や妬み、自分と違う意見を持つ人たちへの攻撃性を引き起こす働きもしていたのです。
例えば、ネットで誰かを批判するコメントを書いて炎上を引き起こしたり、誰かをいじめるという問題行動の背後にオキシトシンが働いているというのです。

「批判」や「炎上」、「いじめ」などということは、「愛」とは正反対のことのように思います。
愛があり、ホルモンの効果によって幸せになり、平安が増すはずなのに、どうして人をいじめたり、攻撃するようになってしまうのでしょうか?
「愛」には、ネガティブな側面が存在することが明らかになってきてしまったのです。

「愛」は、互いの絆を強くします。
一方で「愛」は、私たちの内に絆を深めるためのグループ意識をもたらし、それを阻害するようなものがあれば、排除しなければならないと感じさせます。
和を乱したり、秩序を壊すような力が加わるとき、それは「愛」の敵であると見なすわけです。

ネットで批判したり、バッシングをする人たちの多くは、使命感を持ってそれをしています。
不倫や不正、不適切な言葉や振る舞いなど、和を乱し、秩序を壊す恐れのあるものは攻撃し、相手を完膚なきまでに叩きのめすことが正義だと感じているのです。

いじめの対象となるのは、多くの場合グループが持つ文化の中でうまく振る舞えない人たちです。
彼らはユニークであるゆえに、グループの意識に馴染むことができず、浮いた存在となりがちです。
それが「和を乱す行動」と受け取られていじめが始まります。
周りの人たちも、「あの人は変だから阻害されても仕方がない」と感じて、いじめを止めません。
しかしいじめが目に余るものになってくれば、今度はいじめをしている人が排除されるターゲットとなっていくわけです。

同じことは、「愛」という言葉がたくさん使われる教会でも起こります。
クリスチャンとしての絆を守るために、教会に集わない人たちを「ノンクリスチャン」、「セキュラー」と呼んで、一切の価値を認めようとしません。
クリスチャン同士でも、自分たちが信じる神学と違う価値観を持っていれば、すぐに「異端」扱いして排除しようとします。
SNSのキリスト教グループや、牧師の集まりでは、このような批判や悪口、感情的で非建設的な議論であふれています。
キリスト教に興味を持って近づいてきた人たちが、クリスチャンのそのような姿を目の当たりにして引いてしまうという状況が、実際に起こっているのです。

私たち自身は、そこに愛はあると思っているし、むしろ正義感や使命感を持ってそのように行動していますが、それはオキシトシンの作用によって引き起こされている行動に過ぎません。
実は、いじめや炎上の構造と何も変わらないものが、そこで起こってしまっているのです。

しかし愛について、イエスさまはこのように言います。
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ 5:43-44)

私たちは、聖書に書かれているように隣人を愛そうとします。
そこにオキシトシンが作用して、愛することの喜びが生まれます。
ところが、そこに起こる隣人愛は、私たちと似た者、仲間、同じ価値観を持ち、秩序を守る人たちを大切にしても、価値観の合わない人たちは排斥しようとしてしまいます。
それに対してイエスさまは、「いや、そうじゃない。価値観を共有できないよそ者、あなたの敵を愛し、あなたを批判し、迫害する者のためにも祈りなさい」と言われるのです。

私たちはどうすればいいのでしょうか?
最初のステップは、イエスさまに従うということです。
「敵を愛しなさい」と言うその言葉に、私たちはありえないこと、不可能なこと、不自然なことを言われているように感じます。
それでも、イエスさまがそう言っているから信じ、「えいやっ」と相手を愛そうとする。
あるいは、愛するための力が超自然的に与えられるように、神さまに祈る。
私たちには、そういう時が必要です。

そしてそれができた時、次に見えてくる光景があります。
それは、「同じ価値観」という共通項を超えた人間関係であり、仲間意識です。
初めは近いところにしか反応しなかったオキシトシンが、少しずつ広い範囲の人たちに対しても反応するようになっていくのです。
それは、オキシトシンが及ぼすネガティブな反応ではなく、社会性や免疫力の向上など、良い効果をよりたくさん得ることができるようになるということです。
「愛」によって、私たちがより元気になり、幸せになっていくこと。
それこそ、神さまが創造した私たちのあるべき姿なのではないでしょうか。

いじめのことに関しての研究で、興味深いことがもうひとつあります。
それは、どういう傾向を持っている人たちがいじめを起こしやすいかということです。
実は、倫理的で正義感の強い人ほど、人をいじめる傾向が強いことがわかったのです。

倫理観が強い人や正義感のある人たちは、「いじめなんてやめろ!」と言いそうですが、結果は逆になったのです。
でも、オキシトシンの作用について学んだ今なら、どうしてそうなってしまうのかということが少しわかりますよね。
オキシトシンの作用によって起こる絆やグループ意識の中で、正義感がある人ほど、和を乱す人が許せなくなってしまうのです。
倫理観や正義感が強いほど、愛はネガティブな方向に働いてしまうのです。

イエスさまがどうして、パリサイ派の人たちや、律法学者と戦っていたのか、どうしてパウロが「律法主義ではだめなんだ」と言っていたかということが判るような気がします。

もちろん、倫理や正義を否定して、アナーキーであるべきだということではありません。でも私たちは、「正しさ」というものが神さまのものであるということを忘れてはならないのだと思います。
善悪の判断を神さまに委ねるのでなく、自分の価値観で決めようとするとき、私たちの「愛」は暴走し、自分とは違う人たちへの攻撃性に変わってしまうのです。

だから私たちは、イエスさまが私たちに与えた戒めを、もう一度よく考えましょう。

ヨハネ 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
15:13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません

オキシトシンは、神さまが私たちの中に創造した愛し合うための仕組みです。
罪人となった私たちは、それをうまく使えなくて、ネガティブな面が引き出されてしまうこともありますが、愛し合う対象を広げ、伸ばし、本来の姿に近づこうではありませんか。

祈りましょう。