創世記11章 バベルの塔
バベルの塔
アララテ山に漂着したノアたちは、やがて山を降り、子孫の数を増やしながらシンアルの地に定住したようです。
シンアルの地は、いわゆるメソポタニア文明が拓けたティグリス川、ユーフラテス川の間ですね。
肥沃な地域を求めて、人々は移住していったのです。
さて、そこで数百年の月日が経っていく中で、人々の間では技術革新が起こり、レンガを使っていた人々は、瀝青(アスファルト)を発明して、より大きな建造物を作ることができるようになっていきました。
そんな時、人々の中にはこのように言う人たちができていたのです。
創世記 11:4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
洪水の後、神さまはどのように言っていたか覚えていますか? こうです。
創世記 9:1 神はノアとその息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。
こうして、ノアの子孫たちは、あっという間に神さまに背き、地に満ちるどころか一つの場所に留まろうとしたわけです。
そして彼らは、自分たちの技術力を駆使して、「頂が天に届く高い塔を建て」ようとします。
こう聞くと、超高層ビルのようなものを想像するかもしれませんが、実際にはそれほど高い建物を建てたわけではありませんでした。
バベルの塔というのは、いわゆる図にあるようなジックラトと呼ばれるピラミッドのようなものだったと言われています。
これは、宗教的な神殿のようなもので、建物の高さによって天に届こうとするというよりは、宗教的な儀式や行いによって天に届こうとするイメージに近いかもしれません。
しかし、僕たちは自分の力や知恵、知識によって神さまに届くことは、決してありません。
創世記 11:5 そのとき【主】は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
皮肉なことですが、人が神さまに届くために建てた塔を見るために、神さまはわざわざ降りてこなければなりませんでした。
人間の作るものは、その程度のものなのだということです。
この後、神さまは人の言葉を混乱させ、人の企みを阻止します。
言葉が通じなくなった人々は、ここからそれぞれの地に散っていきました。
でもそれは、最初の神さまの計画でしたね。
そして、人々が世界中に散っていくことは、むしろ祝福なのです。
僕たちは、時として「増え広がせよう」と願っている神さまの思いとは逆に、集まり、固まろうとしてはいないでしょうか?
教会のことを考えたとき、それを感じてしまうことがあります。
どうして人を一つの建物の中に集めようとするのでしょう?
教会に人を集めて、人が増えたと言って喜ぶのはなぜでしょう?
大きな教会を建て、名を上げようとしてはいないでしょうか?
それは、この時の人々の姿と重なるように思えてなりません。
混乱の呪いが断ち切られるとき
さて、この時に起こった言葉の混乱によって、人間の間には一致がなくなりました。
現代の社会でも、それはよくわかりますね。
様々な国の言葉があることももちろんですが、同じ言葉を話していても、「この人には話しが通じない」ということがよくあります。
神さまに逆らう者となった私たちの中に、一致はありません。
この混乱ゆえに、私たちの中には争いが起こり、愛し合うことができないのです。
本来私たちの中にあるはずの一致を、どうしたら取り戻せるでしょうか?
そのカギの一つが、イエスさまが昇天した後の五旬節(ペンテコステ)の出来事に隠されています。
使徒 2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
聖霊が注がれた使徒たちを通して、そこに集まっていたさまざまな国の人々に、彼らの国の言葉で福音が語られます。
バベルの塔の時に混乱した言語は、ここでその混乱を乗り越えるのです。
さらに、他の箇所も見てみましょう。
エペソ 4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
一致は、聖霊によって起こります。
私たちひとりひとりが救いを受けいれ、聖霊をお迎えし、聖霊に満たされることによって、バベルの時代以来混乱していた私たちの中に、一致は起こるのです。
アブラハム登場
聖書の序章が終わって、ここからイスラエルの歴史が始まります。
序章の部分は、聖書の土台の部分。
聖書の救いの物語の前提となる部分でもあったので、スケールが大きいけれど現実味が薄いというか、どこか神話のような話の作りになっていました。
映画で言えば、オープニングまでの部分ですね。
ここからいよいよオープニングテーマが始まり、アブラハムという一人の人を通して、神さまの約束が実現していくまでの神さまの計画が語られています。
そういう意味では、雰囲気が一気に変わって、現実的な話の展開となっていきます。
創世記 11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランは父テラに先立って、親族の地であるカルデア人のウルで死んだ。
11:29 アブラムとナホルは妻を迎えた。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父、またイスカの父であった。
11:30 サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。
11:32 テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。