創世記22章 備えてくださる神

アブラハムの苦悩

子どもが与えられるという神さまの約束から、25年の月日をアブラハムは待ちました。
そしてやっと与えられた約束の子イサク。
そのイサクを、神さまは焼き尽くす生贄として捧げなさいと言いました。

待って、待って、待ちに待ってようやく与えられた約束の子を、結局神さまが取り上げようと言うのです。
こんな理不尽な事があるでしょうか?
子孫が星の数ほどになるという約束はどこに行ったのですか?
それにしても、子どもをいけにえとして捧げろとはどういうことですか?
神さまはそんなに残酷で、恐ろしいことを望まれる方なのですか?

アブラハムは葛藤に葛藤を重ねた末、最後にイサクを捧げるためにその喉に手を伸ばします。
しかしその瞬間、「イサクに手をかけてはならない」という声が天から響き、ふと横を見ると、雄の羊が籔に角を引っ掛けているのを見つけ、イサクの代わりとしてその雄羊がいけにえとして捧げられることになったのです。

愛するひとり子であるイサクを自らの手で生贄として捧げるという試練は、アブラハムだけに与えられた特別な試練です。
それは当事者であるアブラハムには思いもよらなかったことでしょうが、後の時代から見て初めてわかる秘密が彼の人生には隠されています。
僕たちの罪の赦しを完成させるために、ひとり子を十字架につけた神様の痛みを、僕たちはアブラハムの人生を通して知ることが出来るのです。

アブラハムは、自らのひとり子イエスさまを、僕たちに捧げて下さった神さまの伏線です。
僕たちは愛する子イサクを捧げるアブラハムの苦悩に共感し、その壮絶さに想いを馳せる時、父なる神さまが僕たちのためになして下さった犠牲の大きさがどれほどのものだったかを少しだけ理解することができるのです。

捧げられるイサク

さて、この時イサクは何歳だったと思いますか?
映画などでアブラハムが描かれる時、イサクが捧げられるこのシーンで、イサクは幼い子供として登場することが多いので、小さい子どもだと思いますよね?
そして、「幼い子供をいけにえに捧げさせるなんて、なんて残酷な神だ」と思ったりします。

でも、ユダヤ人の伝承によれば、この時イサクはすでに26歳になっていたとか、37歳だったと言われています。
だいたい30歳前後の年齢だったと言うんですね。

イメージが随分変わってきませんか?
幼くてまだ何も判らない子どもを騙し騙し山奥に連れて行って、いけにえとして捧げるという恐ろしいけれどドラマチックな話ではないのです。

イサクとアブラハムはちょうど100歳年が離れていますから、仮にイサクが30歳だったとしたらアブラハムは130歳。
もうどっちが連れて行かれているのか判らなくなってきますね(笑)。
どちらの腕力が強いかということは、考えてみれば誰にでもわかります。
イサクが「冗談じゃない」と言って逆らえば、老人アブラハムにはそれを止める術はありません。
しかしいけにえとして捧げるためにはイサクの両手を後ろで縛り上げ、石で築いた祭壇の上に乗せる必要があります。

ね、アブラハムがひとりでできることではないんです。
そしてアブラハムの手を助け、イサクの手を後ろで縛り、祭壇の上に乗せるように取り計らったのは、他でもないイサク自身だということなのです。
この出来事は、イサクの信仰があって、初めて成り立つことだったということです。

さて、アブラハムがイサクを捧げるように言われた場所は、1日半も離れたモリヤという山でした。
アブラハムはわざわざこんな離れた場所まで来て、イサクを生贄として捧げなければならなかったのです。
なぜでしょうか?

アブラハムがイサクを主に捧げてからおよそ2000年後、このモリヤの山は少し別の名前で呼ばれていました。
このモリヤの山の一部を、“ゴルゴダの丘”というのです。

このモリヤの山、ゴルゴダの丘で、私たちの罪を贖う生贄の雄羊としてほふられた方を、私達は知っています。
神のひとり子であるイエス・キリストが、僕たちの罪の赦しのためのいけにえとして、十字架で死んでくださったのです。
それがともに同じ場所で起こった出来事だったということは、とても偶然とは思えない符号をかんじますよね。

振りほどこうと思えば振りほどく事ができたのに、アブラハムがいけにえとして捧げようとするその時に逃げ出すのではなく、むしろ父がいけにえとして捧げようとするその作業を手伝うイサクの従順。
ゲツセマネで血の汗を流しながらも、「あなたの御心のままに」と十字架の道を選んだイエスさまの従順。

自らを焼く事になる薪を背負ってモリヤの山を登るイサクの姿。
これからかけられる十字架を、自ら背負わされてゴルゴダの丘を登りゆくイエスさまの姿。
すべてがオーバーラップしてきませんか?

アドナイ・イルエ

さて、さらにもう一歩先に進んでみましょう。
イサクはイエス・キリストを表す雛形なのですが、イサクとイエス様ではひとつ重大な部分で違いがあります。
イエス様は十字架の上で実際に死にましたが、イサクは結局死ななくて済んだということです。

アブラハムがイサクの首をかき切ろうと手をかけた時、神様がその手を止めるのをアブラハムは聞きました。

創世記 22:12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

目を上げると、彼は籔につのを引っ掛けている雄羊を見つけました。
アブラハムはイサクの代わりにこの羊を捕まえ、全焼の生贄として捧げます。
ここに、「贖い」という重要なメッセージが表されています。

この時、イサクは死ななければならないはずでした。
しかしその身代わりとして、雄羊が与えられたのです。

僕たちはひとり残らず、永遠に滅ぼさなければならない罪人でした。
しかし僕たちにはイエス様が与えられ、イエスさまが僕たちの罪を贖い、僕たちの身代わりとして十字架にかかってくださったのです。

この時、アブラハムは神さまをアドナイ・イルエと呼びました。
それは、「備えて下さる主」という意味の言葉です。

神さまが僕たちに備えて下さっているのは何でしょうか?
僕たちの必要を満たしてくださるということもできるのですが、ここに表されいるのはそれよりもずっと大きなことです。
それは、創世記の最初からテーマとして書かれていたこと。
神さまから離れて罪人になってしまった僕たちを、どうやって救うかという計画。
罪の贖いを備えて下さっているということが、この出来事の中で表されているのです。

主の備えがあります。
主の山、ゴルゴダの丘に、贖いという備えがある。

僕たちは「贖われている」という事実をただ信じ、喜びを持ってその真実を受け取ればいい。
ただそれだけで良いのです。