愛について考えてみよう③
愛は礼儀を守る
Iコリント 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
“親しき仲にも礼儀あり”という言葉がある。
仲がいいという事は、ぶしつけに言いたいことを言うことと同じじゃない。
時には愛ゆえに相手に注意をしたり、戒めなければならない事もあるだろうけど、その時にも伝え方というものはあるんじゃないだろうか。
愛する思いから言っているはずの言葉が、相手を不必要に傷つけることもある。
それでは、折角の愛する思いがまったく反対のものとして相手に届いてしまうことになる。
また、愛する事に当たり前のものは何もない。
「私のことを愛しているんだから、これくらいの事してくれて当然でしょ?」
と言う時、相手の人の愛は確かに足りないかもしれないけれど、それを言う本人には愛なんて微塵もない。
愛する相手だからこそ、「ありがとう」を言うべきじゃないだろうか。
過度の礼儀正しさは他人行儀にしかならないけれど、愛するならば礼儀を守ろう。
とは言え、基準となる礼儀の正しさは人によってまちまちなので、互いに相手が礼儀知らずに思える事もあるのだけれど・・・。
そこはまぁ、寛容さが発揮されるべきという事で。(^-^;A
愛は見返りを求めない
愛するという事は与えることだ。
そこにお返しを求めるようなものではない。
「こんなに愛してやったのに、お返しのひとつもない!」
「私があなたを愛したのだから、あなたも私のことを愛するべきだ!」
僕たちはついついその様に思ってしまうのだけれど、愛という言葉を使うなら、そこにお返しを期待するものではない。
「自分が愛ゆえに何かをしたとして、相手がそれに何も反応しなかったとしても構わない」と思えるようなことでなければ、僕たちは愛の言葉の元にするべきではない。
そうでなければ、それは“愛してもらうため”にやっている事であって、愛の行いではないのだから。
ただ、それを逆手にとって、するべき恩を返しもせず、「見返りを求めるなんてなんて愛がないんだ。」というのでは困るけれど・・・。
相手が見返りを求めていないとしても、与えられて当然と思うのではなく、いつか何かの形で返したいという思いを持つことは、決して悪いことではないと思う。
さらにもうひとつ。
見返りを求めないということは、自己犠牲的に相手に尽くし、自分は恩を仇で返されても涙を飲み込んで耐え、与え続けると言うようなことではまったくない。
そんなことをすれば、結局相手のためにはならないだろう。(たとえ相手が配偶者や自分の子供であっても!)
“自分の利益を求めず”というこの言葉が、時にそのような用いられ方をして多くの誤解を生んできたのは残念なことだと思う。
それによって多くのクリスチャンが傷ついてきたんじゃないだろうか。
自分の利益を求めないことと、自分の身を守らないことは同じじゃない。
自己犠牲的な愛が、時には必要な時もあるだろうし、僕達がしなければならない事もいつかはあるだろう。
しかしそれは、決して誰かに強制されるようなものでもなければ、できない事を責められるべき事でもない。
自己犠牲的な愛は、神様にじっくりと練られた上に、聖霊の助けがあって初めて可能になる事なのだから。
下手に背伸びをする事は、むしろ自分の力に頼り神様を置き去りにしてしまう事があるということも、忘れないで欲しい。
まずは、今の自分にできる所から・・・
愛を怒りを遠ざける
愛するなら、僕たちは容易にキレたりしない。
怒る感情は、誰の中にもある。
そして中には、怒るべき、正当な怒りだってある。
正しいものを求めるからこそ起こる、罪への怒りだ。
イエス様だって律法学者やパリサイ派の人々に対して怒りの言葉を投げかけた。
宮きよめでは、商売をしている人たちの机をひっくり返したり、家畜を追い出したりした。(マタイ21:12~参照)
でもイエス様は、律法学者やパリサイ派の人たちを憎んでいたわけではない。
彼らの傲慢さと、人々を神様の恵みから引き離す働きを憎み、怒ったんだ。
必要な時には必要なことを話し、優しく受け入れることもあった。
だからニコデモやアリマタヤのヨセフの様に、イエス様を信じた人たちもいた。
感情は、人を動かすエネルギーとなる。
その中でも“怒り”の感情は、人を負の方向へと動かすエネルギーとなる。
だから、不用意に怒ることを、僕たちは気をつけなければならない。
とはいっても、その感情を押さえつければいいというものではない。
自分の中に起こった怒りの感情をどれだけ無視し、押さえつけても、それはやがて圧力を増して爆発してしまうだろう。
感情は、我慢だけで押さえつけられるようなものじゃないのだから。
必要なのは、そのエネルギーに振り回されることなく、うまく乗りこなすこと。
時にはなだめ、時にはすかし、時にはその力を利用して高みに上る事もできる。
感情をうまく利用するすべを覚えることが、大人になっていくということなんじゃないかと僕は思う。
自分の中の感情をうまくコントロールできなければ、それがたとえ“愛情”というプラスのエネルギーだったとしても、それに振り回されて自分を破滅させてしまうこともあるよ。
プラスだろうとマイナスだろうと、自分が感情に従うのではなく、感情をうまく使っていく理性が、僕たちには必要なんじゃないかな。
愛は悪を思わない
僕たちが人を愛する時、その人の悪い部分をわざわざ見つけ出すという事はしない。
例えば好きな人がいた時、その人のいい部分を見て、その人が好きになるはずだ。
その逆に、嫌いな人はその人の悪いところが目に付いて嫌いになる。
ここで言われている愛のあり方は、人の悪い部分に目を留めるのではなく、その人のよい部分を見ていこうという事。
「でも、その人の悪い部分を正してあげるのも愛じゃないか?」という人もいるだろうと思う。
それは確かにそうだけれど、それをするなら、その人の良い部分を悪いところの5倍は伝えてからにした方が良い。
そんなに良い部分を見つける事ができないというなら、僕たちはその人の悪い部分を正して上げられるほど、その人のことを十分には知っていないという事だ。
聞かされる方も、きっとその忠告を素直には受け取れないんじゃないかな。
人の欠点を見つけ出すことは、それほど難しいことではない。
放っておいても、付き合いが長くなれば、その人の悪いところは自然に見えてくる。
そこで悪いところに目を留めるのではなく、その人の良い部分を見つけることに心を注ごう。
“恋は盲目”状態にあるのでない限り、人の良い部分はそう簡単に目に付くものじゃない。
それは、僕たちの心がいかに人の欠点に注がれるようになってしまっていているかを表しているよね。
だからこそ、あえて相手の良い部分を探そう。
人の悪い部分を愛する事はとてもできるものではないけれど、人の良い部分を愛することなら簡単にできる。
人の悪を思わない事が、僕たちの愛をさらに大きなものとする力となっていくんだ。