創世記25章 アブラハムの最期

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アブラハムの最期

サラを葬った後、アブラハムはケトラという人と再婚し、さらに何にもの子どもを授かります。
アブラハム、元気ですね~!
「今更サラに子どもが授かるだろうか」と笑っていたのは何だったのかという感じがします(笑)。

ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハという子どもたちが生まれますが、この中で大切なのはミディアンで、彼の子孫は一つの部族を形成し、「ミディアン人」として聖書の中にも出てきます。
モーセの妻となるチッポラなどはミディアン人で、何世代も遡れば親戚だということになりますね。
イスラエル人ではなかった彼らが、モーセと繋がることとなっていったのも、頷けるような気がします。

しかし、彼らが選ばれた民であるイスラエル人ではないことは確かなことで、士師記の時代頃になると、完全に異民族としてイスラエルとは敵対していくようになっていきます。

アブラハムに関しては、このまま彼は人生の幕を下ろしていきます。

創世記 25:8 アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。

幸せな最期だったのは、良かったですね。
僕たちも、そんな最期を迎えたいものです。

アブラハムが死ぬと、サラと同じ墓に収められるようになりました。
そしてイサクは、ベエル・ラハイ・ロイに住むことになっていきます。
ハガルが神さまの使いと出会った場所ですね。

イシュマエルの子ら

聖書には、少しですがイシュマエルのその後についても書かれています。

約束の子はイサクなので、彼はカナンの地から去ることになりましたが、アブラハムの子として祝福を受けました。
彼らはエジプトに下り、東の方に移り住んでいきましたから、アラビア半島の方で増え広がっていきます。

前にも書きましたが、彼の子孫はアラブ人と呼ばれるようになっていきますね。

イサクの子孫はユダヤ人となり、イシュマエルの子孫はアラブ人となっていく。
ユダヤ人は商人としての才能を与えられ、アラブ人は土地から石油が産出されることによって、両部族とも世界の富を握っています。

ユダヤ人はユダヤ教、アラブ人はイスラム教を作りました。

そして、ユダヤ人とアラブ人は、今もそれぞれが争うようにもなっています。
預言されていた通りの歴史を歩んでいるように見えますね。

創世記 16:12 彼は、野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼は、すべての兄弟に敵対して住む。」

イサクの子ら

前の章でイサクが妻として迎えたリベカでしたが、子どもがなかなか授かりませんでした。
イサクの母サラもそうでしたが、神さまの計画は神さまのタイミングで起こされてゆき、それは時として僕たちが思っているのとは違うタイミングで起こります。
僕たちは待ちきれなくて、いろいろなことが心配になるのですが、神さまの計画は必ずなるので、委ねていればいいんですね。

さて、リベカには双子が授かります。
神さまは、子どもたちの未来についてリベカに教えていました。

創世記 25:23 すると【主】は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」

これは、イサクの子どもたちのことを理解する上でとても大切な預言なので覚えておいてください。
「兄が弟に仕える」と預言されていますね。

イサクとリベカが、ちゃんとこの言葉を信じていれば、彼らの子どもたちの間に不要な問題が起こることはありませんでした。
僕たちは、神さまを信頼しきれないために、あるいは神さまに聞こうとしないために直面してしまう問題がたくさんあるように思います。

リベカに生まれたのは、エサウとヤコブ。
兄のエサウは毛深くて、狩りを好む男として育っていきます。
弟のヤコブは、エサウのかかとをつかんで生まれてきましたが、彼はどちらかというと内向的な男として育っていきました。

しかしある時、一つの出来事が起こります。
ヤコブが煮物を作っている所に、腹を空かせたエサウが帰ってきたのです。

創世記 25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。

エドムというのは、「赤い」という意味です。
赤い肌をしているとか、赤い髪とかいうのではなく、食べ物から来てたんですね。
レンズ豆を使った料理で、素朴な味ですが確かにおいしいです。

エサウの子孫はエドム人と呼ばれるようになり、長い間イスラエルと敵対する民族となります。
有名な人はなかなかいませんが、イエスさまの時代のヘロデ王はエドム人でした。
エドム人だったヘロデがユダヤの王となっていたと考えると、複雑な状況があったことがわかりますよね。
中間時代(旧約聖書と新約聖書間の空白の400年間の歴史)について書いた記事の中で、その辺りのことは触れています。

さて、このエサウは、ヤコブが作った赤い料理と引き換えに長子としての権利を譲ってしまいました。
とはいえ、先ほども書いた通り、神さまの計画の中でこの祝福を受け取るのは、兄のエサウではなく、弟のヤコブだということが判っていたわけです。
エサウが言ったことも、別に明確な契約が結ばれたというわけではなく、単なる口約束です。

ここで問題なのは、エサウが長子としての権利を食べ物と交換してしまったということです。
これは、単なる財産の問題ではなく、アブラハムが神さまから約束され、イサクに引き継がれた大切な祝福の権利です。
砂浜の砂のように、夜空の星のように増える子孫と、救い主が生まれるという特別な祝福を、エサウはお腹がすいたからという理由だけで簡単に手放してしまったのです。

創世記 25:34 ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。

神さまが与えている祝福をどのように受け取り、認識しているかということは、僕たちにも重要なことだと思います。

自分が好きなものを刹那的に選択し、救いはいらないというなら、その人は救いというものを理解していないし、神さまとの関係を大切にする人ではないだろうと思います。
私たちの信仰告白は、どれくらい私たち自身にとって意味のあるものでしょう?

救いを受け取ることは簡単ですが、心からそれを求めているわけではないということはあるのではないでしょうか?
時には、自分の中にある神さまとの関係を見直す必要があるのかもしれませんね。