愛について考えてみよう②

愛は親切

創世記 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

愛することは、親切であることだ。 

親切って何だろう? 
ここで親切と訳されている言葉は、英語の聖書だとkindという言葉で表されている。 
それは、”優しさ”とも訳すことができる言葉だ。 

でも、“愛は優しい”でなく、”親切”とした事には意味があるんだと思う。 
他の訳を見ると、“慈悲深い”とか、“あわれみ深い”“いつくしみ深い””慈愛に満ちている”なんていう言葉もある。 
でも、それではちょっと偉そうだし、わかりにくい。 

思うに、ここで言われているkindは、”優しい”という言葉では足りないという事なんだ。 
“優しい”という言葉では、確かに少し甘さがある。 
消極的というか、受け身な感じがする。 
ここで必要とされているのは、ただ何かされた時に優しくしてあげる事なのではなく、能動的に優しくする事。 
つまり、親切という事は、積極的な優しさなんだ。 

人から嫌われないためにする優しさではなく、相手を想う心からくる真心。 
大好きな人を、「助けてあげたい。」「喜ばせてあげたい。」「びっくりさせたい。」と思ってするのと同じこと。
そこに親切の真意があるような気がする。 

イエス様は、こういう言葉で親切を表している。 
マタイ 7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。 

優しいだけでなく、親切であること。 
積極的に愛を表現するなら親切は必ず現れる。 
愛のあるところに親切があり、親切のあるところには愛がある。 

とは言え、親切であるという事は、“いい人に”になる事とは同じことじゃない。

愛の人となり、親切であろうとし過ぎると、人に対して“No”が言えなくなっていってしまう。 
依存傾向のある人たちは、その様な“いい人”を見つけるのがうまい。 
いい人は途端に依存されて、お願いされたことを何でもかんでも聞いてあげたり、その人が困っている事をすべてしてあげようとするようになる。 
しかしやがてつぶれてしまい、「自分には愛がない。ダメな人間だ。」と思いこむようになってしまう。 

人が望むものを与えることが愛ではない。 
子供が欲しがるものをすべて与えてしまったら、その子供は体も心も病気になってしまうだろう。 
欲しいものを与える事は、時として相手を不幸にさせることにもなる事を忘れないで欲しい。 

いい人であろうとする事は、実は「自分が嫌われたくない、愛されていたい」という心理からくる自己中心だ。 
それは一見愛に似ているけれど、まったく違うもの。 
人を愛し、親切である事は、時として相手から疎まれたり嫌われたりする覚悟がなければできる事ではない。 

痛風で苦しんでいる人が癒されることを願ってイエス様の元に来たとき、イエス様はそれを癒すのではなく、「あなたの罪は赦された。」と言った。 
本当に必要なのはこの世で楽になることではなく、罪が赦されて神様のもとに生きることだからだ。 

人が望むものではなく、その人が本当に必要としているものが何かを見極めること。 
そこには本当の愛が試される。 

愛は妬まず、自慢しない

愛があるとき、僕たちは人をねたまず、自慢せず、高慢にはならない。 
なぜならば、その中心にある事が、「何を受けるか」という事でなく、「何を与えるか」という事にあるからだ。

ねたみや高ぶりの土台になっているのは、比較の価値観。 
隣の人と自分を比較して、一喜一憂する時、僕たちは他人をねたんだり自慢するようになる。 

僕たちはついつい隣の人と自分を比較してしまう。 
でも、僕たちがまず主の愛に生き、それに忠実であるなら、僕たちは人をねたんだり、自慢したりする必要がなくなるのだと思う。 

愛がある時、僕たちは人と自分を比較する必要を感じない。 
でもそれだけではなく、比較することをやめた時、僕たちは隣にいる人をもっと深く愛せるようになるんじゃないだろうか。