愛について考えてみよう①

愛は絶えることがない

Iコリント13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

恋愛は強烈な感情だ。 
人の心をうきうきさせ、わくわくさせる。 
でも、感情でしかない恋愛は、時が経てばやがて、冷めてしまう。 

恋は盲目という。 
恋をすると、相手のいい部分ばかり見て、本当の姿が見えなくなってしまう。 

でも愛は、感情じゃない。 
愛は、選択であり、決意だ。 
だから愛は、決して絶えることがなく、冷めるということはない。 

日本の社会は、恋愛と愛を取り違えている。 
それを間違えると、僕たちは神様からの愛を勝ち取るためにも、いろいろな努力をしなければならないと思ってしまうんじゃないだろうか。 

愛がなければ

聖書にはこんな風に書いてあるよ。

Iコリント 13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

クリスチャンとして、もっとも大切なことは、毎週必ず教会に行くこではなく、伝道することでも、かかさずに祈ることでも、聖書をマスターするこども、善い行いをすることでもなく、愛することなのだという。

他のすべてが必要ないわけではもちろんないけれども、愛以上に大切なものはない。 

異言で祈ったり、奇跡的な体験をたくさんしたとしても、そこに愛がないならそれは何の意味もない。 
神学校で何を学び、どんな神学知識をもって、どんなにわかりやすくて感動的なメッセージを語ることができたとしても、神さまからの直接の言葉を伝えることができたとしても、そこに愛がないなら、何の値打ちもない。 

いつも平安にあふれていて、すべてを神様に信頼する素晴らしい信仰を持っていたとしてさえ、それは愛に及ばない。 

貧しい人たちにいろいろなものを分け与え、どんなにやさしく接してあげたとしても、また、自分の命をかけたとしてさえ、そこに愛がなければ何の役にも立たない。 

「そういう行いは、愛がなければできないことなんじゃないか。」と思うかもしれないけれど、ここで言いたい事は、『大切なのは行いなのではなく、愛なんだ。』ということ。 
僕たちはそれが愛の行いだと思うあまり、行いの方にばかり目がいってしまって、それが愛から来ているのかどうかという動機を忘れてしまいがちなんじゃないかな? 

心に愛があれば、それが行いとして現れることも確かなのだけれど、行いそのものが愛ではないということをちゃんとわかっていないといけないよね。

愛は寛容

産まれたばかりの赤ん坊が、話しかけても言葉を理解しないからと言って「この子は馬鹿だ!」と罵って怒り出す親がいるだろうか。 
それは極端な話にしても、嫌いな人が言うのと同じ意見でも、好きな人が言えば許せてしまうなんて事がないだろうか。

Iコリント 13:4 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

人を愛するという事は、僕たちは人に対して寛容であるという事だ。 
愛のリストはここから始まる。 

誰かが間違いを犯した時、それを責めるのではなく赦し、その人の成長を待つ心が寛容ではないかと思う。 
ただ我慢し続けるのではなく、期待して待つ心。 
また、自分の価値観を通してすべてを見るのではなく、人の意見や言葉を受け止めること。 

僕たちはみな罪人だ。 
だから、誰でも間違いを犯す。 
自分も過ちを犯すのだから人の間違いには寛容であればいいのだけれど、間違いが正しいことではないという事がわかっている以上、人の間違いはよく見えて、それを正そうとし過ぎてしまうのかもしれない。 

その性か、一般的にまじめだったり物事に熱心であればある程、寛容さを失ってしまう傾向がある。 
だから、おかしなことではあるかもしれないけれど、信仰に熱心な人に限って、寛容さに欠けているという事も少なくない。 

神学論争に熱中して、互いに誹謗中傷してしまっている事もあるよね。 
その人たちは、信仰熱心な人たちではあるんだ。 
でも、自分の主張に目を奪われるあまり、「寛容でありなさい。」と言う神様の言葉を見失ってしまうのでは、やっぱり何かがずれてしまっているのかもしれないね。 

でも、熱心さが不寛容を生むのだと早とちりをしてはいけない。 
熱心でない方が良いのかと言えば、もちろんそんな事はない。 
聖書には繰り返し、信仰深くあることが言われてもいる。 

寛容である事とは、物事は適当に考えて、いい加減になるという事とは違う。 
僕たちは、やはり熱心に信仰し、熱心に神様を求めるべきだ。 
神学にこだわるのもいい。 
自分なりに、とことん理解しようとすればいい。 

でも、僕たちが熱心になり、こだわりを持てば持つほど、人に対しては寛容である事を忘れてはならないのだと思う。 
相手が好きだから赦すのではなく、相手を赦し寛容であることから愛は始まる。