出エジプト記15章 舌の根が乾かぬうちに
賛美
全く思いもつかないような奇跡によって救われたとき、イスラエルの人々から自然に湧き上がったのは賛美の心でした。
賛美って、こんな風に湧き上がってくるものなのだろうなぁと思います。
ここから、イスラエルの新たな時代が始まります。
もう、追ってくる兵士たちはいません。
エジプトを恐れる必要はないのです。
この時、彼らは本当に奴隷から解放されたということができました。
水をくぐって新たないのちを得たこの出来事は、イスラエルにとっての洗礼だったとパウロは考えています。
1コリント 10:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、
10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
バプテスマ(洗礼)という儀式そのものは旧約聖書の中には出てきませんので、たぶん中間時代(旧約聖書と新約聖書の間の空白の400年)に始められたことなのだろうと思います。
でも、ノアの時代の洪水や、モーセ達が紅海を通ったことがバプテスマの元ネタとなっている可能性は高いですね。
僕たちがクリスチャンになって洗礼を受けるということも、罪の奴隷から解放されて新しい命を受けるという、このような喜びを表しているのです。
下の値が乾かないうちに
さて、イスラエルたちは先に進みます。
もう、エジプトの兵士たちから逃げるためではなく、約束の地へと向かうためです。
しかし、心から賛美を歌ったその舌の根が乾かないうちに、彼らは不平を漏らし始めることになります。
水が見つからないからです。
彼らがようやくたどり着いた水場で水を飲もうとすると、その水は苦くて飲めませんでした。
そこでその土地は、「苦い」という意味の「マラ」という名で呼ばれるようになりました。
僕たちも、クリスチャンになって、新しい自分として生き始めても、問題が起こるとすぐに不平不満が出てきたりしますね。
つい先ほど救われたばかりなのに、ものすごい奇跡を目の当たりにしたのに、僕たちはすぐにそれを忘れてしまいます。
僕たちは、こんなイスラエルを反面教師にして、いつでも喜び、感謝し、神さまを信頼する者でありたいですね。
不平不満ではなく、神さまが助けてくださることを信じて、神さまに何をするべきか尋ねましょう。
モーセが叫ぶと、神さまは彼に1本の木を示しました。
それを苦い水の中に投げ込むと、その水は飲めるようになりました。
神さまは、必ず脱出の道を拓いてくださるのです。
出エジプト 15:26 そして言われた。「もし、あなたの神、【主】の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたを癒やす者だからである。」
神さまは、僕たちがどのように考え、どのように行動するべきかをちゃんと教えてくださいます。
こんな約束をして下さるのは、どれほど大きな励みとなるでしょう。
でもイスラエルは、そんな神さまのことばなんてすぐに忘れてしまうのです。