出エジプト記16章 マナ

イスラエルの不平

さて、またしてもイスラエルの民から不平不満があふれ出します。
今度は、「食べるものがない」という不満です。

出エジプト 16:3 イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」

「肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていた」と言っていますが、それはいつの記憶だよという話しです。
奴隷として生きている中で、確かにそんな瞬間もあったのかもしれません。
でも、彼らは奴隷としての生活に苦しみ、喘ぎ、神さまに助けを求めていました。
その思いを募った時、神さまが動いて脱出の道が拓かれたのです。
「何を言ってるんだ?」という感じですが、その様子に自分の姿が映し出されている様で、胸が痛いですね。

クリスチャンとしての生活が始まると、僕たちはすぐにその祝福に慣れてしまいます。
そしてちょっとしんどいうことがあると、「クリスチャンになんてならなければよかった」と思ったりする。
「前の方がよかった」と思ってしまう。
でも、冷静になって考えてみたら、そんなことはありません。
神さまとともに生きること喜びは何にも勝る喜びなのです。

マナ

神さまは、モーセに食べ物を与えることを約束しました。

出エジプト 16:4 【主】はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。
16:5 六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」

さらに、夕方には肉も食べられると約束しました。

出エジプト 16:12 「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であることを知る。』」

夕方になると、うずらが飛んできて宿営を覆いました。
イスラエルの人々はそのうずれを捕まえて食べました。

朝になると、地面には露のようなものが落ちていて、それが消えると後には薄く細かいものが落ちていました。
イスラエルの人々はそれを集めました。

彼らはそれを拾い集めながら、口々に「これは何だろう?」と言ったので、その意味の「マナ」という名前で呼ばれるようになりました。
日本語にすれば「ナンジャコリャ」みたいな名前ということになりますね。

味についてはこのように説明されています。

出エジプト 16:31 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった。

コエンドロの種と言われても、あんまりよくわかりませんね(笑)。
訳によってはアーモンドと書かれているものもあります。
少し甘くて、トロッとした食べ物だったようです。

安息日

マナは、一日に必要な量だけしか与えられませんでした。
そして、6日目には2日分が与えられ、7日目はマナが降ることはありませんでした。
なぜこんなことになったのでしょう。

実は、マナの本当の役割は、食べ物の確保というよりも神さまとの関係を深めることが目的だったからです。

これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。(出エジプト16:4)

イスラエルの人々は、このことを通して、神さまに従い、神さまに信頼することを学ぶ必要がありました。
それでも、人々はなかなかそれに従おうとしなかったようですね。

出エジプト 16:28 【主】はモーセに言われた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。
16:29 心せよ。【主】があなたがたに安息を与えたのだ。そのため、六日目には二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、それぞれ自分のところにとどまれ。だれも自分のところから出てはならない。」
16:30 それで民は七日目に休んだ。