出エジプト記17章 アドナイ・ニシ
メリバの岩
イスラエルの民に、またしても不穏な空気が起こります。
また水がなくなり、人々は不平を漏らしたのです。
それは、彼らが神さまを試みることだと書かれています。
不平を言うことが、どうして神さまを試みることになるのでしょうか?
それは、この言葉の中にヒントがあるように思います。
出エジプト 17:7 それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。
これって、「神さまがいるなら、自分はこんなひどい目に合うはずがない」という考えなんじゃないかなぁと僕は思います。
僕たちもそういう風に考えることがありますよね。
でもそれは、神さまを試みることなんです。
神さまがいて、神さまが僕たちを愛してくれているなら、そして神さまが助けてくださるなら、今の状況がどうであっても大丈夫。
神さまが助けて下さらないなら、それはそれで意味があることだから大丈夫。
それが、神さまを信頼するということです。
大体の場合、僕たちは物事の途中で判断して、勝手な結論をつけてしまったりするわけです。
そして、「前の方が良かった」とか、「神さまなんて」という不平不満をもらす。
イスラエルの人たちは、そんな不満がだだ洩れでした。
まぁこれは、どの教会も同じようなものではないでしょうか(笑)。
だからこそなおさら、神さまとの関係の回復が必要なわけですが、成長していくのに時間がかかるものですねぇ。
もっと神さまのことを信頼した方が、人生はもっと楽になるのになぁと思ったりします。
ここでモーセは、神さまの指示通りに杖で岩を打つと、そこから水が湧き出てきます。
この場所はマサ、またメリバ(争い)と呼ばれるようになりました。
でも、実際にそれがどこだったのかは今ではよくわかりません。
アマレクとの戦い
さて、その後モーセ達はレフィディムという場所でアマレク人たちと戦うことになります。
アマレク人は遊牧民で、どうしてイスラエルに戦いを挑んできたのかはよくわかりません。
こういう時代ですから、単に略奪のためだったのではないかと思います。
出エジプト 17:14 【主】はモーセに言われた。「このことを記録として文書に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」
という言われ方をされていますから、滅ぼされなければならないほどに邪悪な状態になっていたのかもしれません。
アマレク人は、この後もイスラエルの敵として何度も登場することになります。
さて、ここでおもしろいのは、ヨシュアが指揮を執ってアマレク人と戦っている間、モーセが杖を持って丘の頂に立ち、杖を上げている間はイスラエルが優勢になり、モーセが疲れて降ろすと劣勢になったという話しです。
なんかすごく中二病っぽい話と言うか(笑)、正直に言うとすごく嘘くさいなぁと思ったりするんです。
そもそも神さまが「そうしなさい」と言ったことではないので、モーセが自主的にやったことなのだと思います。
でも神さまは、「このことを記録してヨシュアに読んで聞かせろ」と言っていますから、神さまの御心に適ったことだったようです。
この戦いの勝利は、ヨシュアの采配によってではなく、モーセの支えによっていたということですよね。
推測できるのは、モーセが杖を上げていたのは、恐らくとりなしの祈りを意味しているのだろうということです。
戦いの背後でされていた、イスラエルのために祈りが、実は勝利のために重要なことだったわけです。
とは言え、ヨシュアが戦わないでモーセの祈りだけで勝利があったわけでもありません。
僕たちは、ヨシュアの戦いとモーセのとりなしの両方をバランスよく考える必要があるだろうと思います。
自分の頑張りだけに頼ってしまう人はモーセの祈りを忘れてはなりませんし、神頼みの祈りだけで何もしなくなってしまう傾向のある人たちは、ヨシュアが戦っていたことを思い出す必要がありますね。
この戦いではイスラエルが勝利して、先に進むことになります。
勝利の後、モーセはここに祭壇を築くんですね。
出エジプト 17:15 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
17:16 そして言った。「【主】の御座の上にある手。【主】は代々にわたりアマレクと戦われる。」
アドナイ・ニシというのは、「主が私の旗」という意味のことばです。
神さまが味方となってくださるなら、勝利は必ず僕たちとともにあります。
僕たちは、いつでも神さまの側に立っていたいものですね。