出エジプト記19章 祭司の王国

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シナイの荒野

モーセは、神さまと出会ったあの約束の山があるシナイに帰ってきました。
ここは通過点でしかなく、これからまだ先に進む必要があるのですが、モーセにとってまずここに戻ってくるということは、原点に返るという意味においても重要なことだったのだろうと思います。

モーセは、イスラエルのためにこのように告げるよう、神さまに命じられます。

出エジプト 19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。
19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

ここで言われている契約と言うのは、20章で語られることですが、イスラエルには一つの契約が与えられようとしていました。
そしてそれを守ることによって、イスラエルは祭司の王国となるという約束がされています。

「イスラエルは契約の民であり、選ばれた民族である」ということが言われるのですが、どういう存在として選ばれたのかと言えば、祭司の王国となるために選ばれた民族なのです。
イスラエルから救い主が生まれるというのもそうなのですが、イスラエルという民族全体にとって重要なのが、この「祭司の王国」としての役割です。

「祭司」というのは、神さまと人との間に立つ人のことだということを以前書きました。
「祭司の王国」というのは、神さまを王とし、他の国々と神さまとをつなぐ国のことです。
他の国々が、イスラエルを通して神さまを知り、イスラエルを通して神さまの救いを受け取る。
これこそ、神さまがイスラエルのために与えようとしていた役割だったわけです。
それを考えると、20章で語られることになる契約、十戒を守るということは、他の国々に対する模範となるためにも大切なことだということがわかりますよね。

しかしイスラエルは、この選びを別のものとしてしまいました。
彼らだけが神さまに愛され、神さまの救いを受けている民であるような錯覚に囚われてしまったのです。
そしてイスラエルは傲慢になり、他の国々を見下し、結果的に祭司としての役割とはほど遠い存在になっていきます。
十戒を始めとする律法を誤解し、ユダヤ教という宗教にしてしまったこともそのひとつです。

神さまが与えようとしていたことを理解するということは、とても大切なことですね~。

イスラエルの約束

モーセが伝えた神さまのことばを聞いたイスラエルの人々は、自分たちが選ばれたことに感動してこのように応えます。

出エジプト 19:8 民はみな口をそろえて答えた。「私たちは【主】の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて【主】のもとに帰った。

良い返事ではあったのですが、イスラエルはこの約束を速攻で破ります。
モーセが十戒を持って帰ってきた時にはすでにその約束を破っていたので、さすがのモーセも激怒して、十戒が刻まれた石を壊してしまったほどです。

しかしここでは、その契約を結ぶために3日間与えられ、イスラエルの人々は聖別されることになります。
「聖別」というのは、聖なるものとして別けられるということです。
具体的には、神道での「お清め」とかと似たような感覚かもしれません。
ここで言われているのは「宗教的なきよさ」ということであり、後にはいろいろな形の律法として、約束ごとが増やされていきます。
それによってイスラエルの民は、他の民族や国民とは違う存在として扱われることになっていったのです。

シナイ山

「シナイ山は全山が煙っていた(出エジプト記19:18)」という表記があるので、シナイ山は火山だったという推測はどんどん的を射ているような気もしますが、ここでの煙は神さまの臨在を表す煙です。
後に、神殿の中央にある至聖所という最も聖なる場所でも、このような煙が常にあったと記されています。

この山に登ることが許されたのは、モーセだけでした。
他の人たちがこの山に入れば、必ず殺されなければなりませんでした。
その際、本人に触れてはならず、石か矢によって殺されなければならないということが記されています。
かなり徹底されていますが、「聖なるものである」とは、こういうことです。
聖は俗とは分けられなければならないのです。

でもイエスさまは、この聖なるものと俗なるものの境を破った存在です。
そのすごさを理解するためにも、僕たちはまず、聖なるものが分けられているということを理解しなければなりません。
神さまの聖(きよ)さは、いのちがかかっているほどに研ぎ澄まされて、厳しいものだということなのです。