十戒(3)主の御名をみだりに唱えない(過去ブログより)

出エジプト 20:7 あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。
この戒めを文字通りに受け取って、ユダヤ人たちは神様の名前を発音しないようにした。
その結果、神様の名前をどう発音するのかが分らなくなるという事が起ってしまうほどだった。
でも、神様が伝えたかった事って、そういう事なのかなぁ?と思ったりする。
僕たちは、自分にとって何か都合の悪い事が起こったとき、
「神様はどうして私をこんな目に合わすんだろう。」
なんて・・・、何でもかんでも神様のせいにすることがないだろうか?
でも、この世界に苦しみがあるのは、本当は、神様のせいなんかじゃない。
僕達人間の罪のために、この世界には悩み苦しみが起るようになってしまった。
罪は僕達自身を傷つけ、僕たちの周りの人達を傷つけ、そしてこの世界そのものを傷つけてしまっている。
神様が罪から離れなさいと、僕たちにうるさいほどに言うのは、
僕達をモラルという型にはめるためなんかじゃなくて、
それが痛みと苦しみ、悲しみを引き起こす事だからだっていう話もしたよね。
「僕たちは、何でも神様のせいにしてはならない。」
これが、この律法が意味している事の一面なんじゃないかなぁと僕は思うんだ。
もうひとつは、僕達が神様への“畏れ”、“尊敬の心”を忘れてしまいやすいという事だ。
僕たちは、ありのままの神様を理解できないので、自分のできるレベルまで神様を引き降ろしてしまおうとする傾向がある。
それが、多神教的な神観だ。
モーセは燃える柴の前で靴を脱いだ。
それは、神様への畏敬の念を表すためだ。
僕たち日本人は自分の家に入るのには靴を脱ぐけれど、神様の御前には土足で上がろうとする民族だとある人が言っていた。
僕もそれをすごく感じる。
僕たちは、実は神様を、舐めて見すぎてるんじゃないのかな。
天のお父様を引き下げてはならない。
天地の創造者、全知全能で、全ての主である神様を馴れ馴れしく考えてはならない。
どんな時でも、神への畏れを忘れてはならない。
神様がそれほどまでに偉大で、すごい存在だという前提があるからこそ、
イエス様が僕たちと同じ肉体を持って下さったと言う事のすごさ、素晴らしさを感動として実感する事ができるのだから。
主の御名があがめられるように。
僕たちは神様に繋がる者として、そういう生き方ができているかな?
イザヤ  48:1 これを聞け、ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、【主】の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、真実をもってせず、また正義をもってしない。
ローマ 2:23 律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。
2:24 「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。
まとめ: 神様ナメずに、黒飴をナメよう(笑)