十戒(4)安息日を守る

出エジプト 20:8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
20:9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
20:10 七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
20:11 それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

安息日というのは、週に一度のお休み、というのが主なところではあるんだけど、実はそれだけの事ではないのが安息日の奥深さ。
色々な解釈があり、色々な意味があるのだと思うけど、僕はこんな風に考えてる。

安息日は「休もうね。」という程度のものでなくて、この日には「働いてはならない。」というかなり徹底した律法だったんだ。

当時、土地も畑もなかったイスラエルの人々にとって、いや土地や畑があったとしても、一日休んで何もしないという事は、どうやって食べていくのかという死活問題だった事だろう。

この一日を主に捧げて、仕事をしないという事は、神様が養ってくれるという信頼になしにはとてもできない事だったんだ。

生きていくために働いて、食料を供給する責任の部分と共に、神様が養ってくださっているという信頼の部分を、イスラエルの人々は安息日を通して学んでいくことができただろうね。

こんな風に、僕たちが神様に信頼する事にはある程度の訓練も必要なのかもしれない。
神様ではなく、全ては自分の力だと考えてしまうのが、罪に生きる僕達にとって普通の状態だからだ。

さてそれに関連して、新約の時代に生きる僕たち、聖霊が与えられている僕たちに示されている安息の別の一面も見ておかなければならない。

へブル 4:10 神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。

僕達、現代のクリスチャンにとって安息とは、週に一日の事ではない。
毎日が安息日なんだ。

僕たちが、自分の肉の業を休んで信仰によって、神様の霊の力によって生きるという事、それが僕達にとっての安息日なんだよ。
つまり、自分主体で、自分の力で全てを切り開いて生きている人生から、神様が与えて下さる力によって生きていく人生に転換するという事だ。

聖霊に満たされるというのは、聖霊の完全な支配のものとに自分を置いている状態を言うのだと僕は思っている。
そしてそういう状態のときに僕たちの心に湧き出る思いは、人間的な思いではなく、神様の御心と一致しているんだよ。

今の世の中、仕事がいつなくなるかもわからず、地震や放射能の問題で未来に希望が持てない人達が多い。
心配し始めたら、いくらでも心配する種に尽きないだろう。
でもぼく達は、神様の元に安息する事ができる。

全ての事を神様に委ねて、安息に入る事ができるんだ。
力を抜いて、自分のやるべき事だけに集中していくなら、神様は必ず道を開いてくれる。
力を抜くことで水に浮く事ができるように、僕たちは信仰によって人生の中で浮かんでいく事ができるはずだ。

まとめ: 力を抜いて、神様に全てを委ねよう