出エジプト記33章 モーセのとりなしその2

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主がともにいない

なんとか裁きと滅びを免れたイスラエルでしたが、彼らにはこのようなことが告げられます。

出エジプト 33:2 わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、
33:3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」

これは、「イスラエルは確かに約束の地へと導かれるけど、神さまはともに行かない。代わりに御使いを共に行かせる」ということです。
なぜなら、イスラエルはあまりにも罪深いので、カナンの地にいる人たちと同じように、イスラエルも滅ぼされてしまうからです。
この宣言は、ショックですね。
イスラエルの人々は、みんながっかりして飾りをつけるものが一人もいなかったと書かれています。

会見の天幕

さて、神さまと会う場所として使われていた幕屋は、「会見の天幕」と呼ばれていました。
モーセはいつも、そこに行って神さまに伺いを立てていたわけですね。
モーセが会見の天幕に入って神さまと面会するときには、雲の柱が天幕の入り口に立ちます。
それを見るとき、イスラエルの人々は天幕の入り口で伏し拝んだと書かれています。(出エジプト33:10)

僕たちにとっては、祈りの時間が会見の天幕に行くときです。
教会堂ではありません。
別に教会堂に行かなくても、いつでも、どこでも神さまと会うことができる特権が、僕たちには与えられています。
ものすごい祝福ですよね。

さて、ある時モーセは、神さまにこのように申し出ました。

出エジプト 33:12 さて、モーセは【主】に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。
33:13 今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」

このことばは、このままだとちょっとわかりにくいですね。
「神さまは、ご自分ではなく御使いをイスラエルの人々の前に遣わして約束の地に導くと言われましたが、私はその御使いを知りません。でも、私はあなたを知っているし、私があなたの心にかなっていると言ってくださいました。どうか神さまご自身が私たちとともにいて下さい」ということです。
モーセは、ここでもイスラエルのためにとりなしているんですね。

神さまはそれを聞いて、「わたしの臨在がともにいって、あなたを休ませる」と約束してくださいます。
でもこれは、神さまはモーセとともにいるということではありますが、イスラエルとともに行くということではありません。
そこでモーセは、さらに食い下がります。
「“私と”ではなく、“私たちと”共にいて下さい」というのです。

出エジプト 33:15 モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。
33:16 私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

僕たちにとって、クリスチャンとして生きるということは、まさに主の臨在がいつでもともにあり、特別に扱われることなのだとですよね。
モーセはそれを大胆に求めました。

神さまに逆らっているように聞こえなくもないのですが、神さまはことごとくモーセのことばを受けれています。
神さまがモーセに怒った時のことを思い出してみてください。
「私にはできません」と言ったときに神さまは怒りましたが、責任を負いながら、神さまに求めるときには神さまは怒りません。
僕たちが、「私にはムリです。できません」と言うことを神さまは嘆き、僕たちが大胆に求めることを神さまは喜ぶのだと思います。
もちろん、自分の利益のために求めていたのではだめです。
人のためにとりなし、「あなたはこのような方ではないのですか?」と訴えるとき、神さまは答えてくださるのです。

神さまと顔を合わせる

「モーセは、神さまと顔と顔を合わせた」という表現があります。
それは、モーセと神さまとの関係の親密さを表していますが、現実的にはできることではありませんでした。
罪人の状態の人間には、神さまを見て生きていることはできないからです。

でもモーセは、「神さまの後ろ」を見ることが許されました。
少なくともこの時点では、人間が神さまに近づける限界だっただろうと思います。

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