出エジプト記25-27章 幕屋の作り方

25章

幕屋

 

神さまがモーセを近くに呼んで、まず伝えたのは、幕屋の作り方でした。
25~27章くらいまでは、幕屋という、移動式の神殿の作り方についての話ですね。

出エジプト 25:2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

幕屋を作るための材料などは、「進んで捧げる心のある人から」集めなければなりませんでした。
強制的ではないということの中に、神さまへの礼拝の本質が表されているように思いますね。
礼拝とは、僕たちが進んで捧げる心の中に起こることを表現するものなのです。

さて、当時の社会では、人々が神さまを実感するためには神殿という場所が必要でした。
これは、神さまがともにおられることの象徴として与えられたものでしたが、神さまご自身がこの場所にとどまっているわけではありませんでした。
これは、イスラエルに神殿が作られたときに言われたことでもありますね。

幕屋の目的は、神さまがともにおられることをイスラエルの人たちが実感するためということと、幕屋を通してイエスさまと言う存在を理解するためでした。

幕屋の中に置かれるひとつひとつのものが、イエスさまの性質を表していたりします。

例えば25章では「燭台」について記されていますが、これは「世の光としてのキリスト」を表しています。
ヨハネの福音書では、イエスさまが「私は○○です」というセリフがたくさん出てくるのですが、それはそれぞれが、幕屋(or神殿)の中にあるものを表しているという見方もあるんですよ。
少なくとも、ヨハネがそれを意識して福音書を書いていたことは確かだと思います。

あかしの箱(契約の箱)

25章のもうひとつの読みどころは、あかしの箱ですね。
これは、翻訳によっては契約の箱とも呼ばれています。
ある程度の年代の方なら、昔インディー・ジョーンズという映画のシリーズがあったのを知っているでしょう。
その第1作目、「失われた聖櫃(アーク)」に出てきたのが、このあかしの箱です。

映画の中では、最後にはこのふたが開かれ、目を閉じていたインディアナたち以外の人々がみんな死んでしまうというできごとが起こりました。
これは、聖書の中で語られていることが参考にされていて、何人もの人たちがあかしの箱の扱いを間違えて命を落としています。
神さまの箱なのに、どうしてそんなに怖いのか?
それは、この箱の中に収められている物に理由があります。

この箱には、十戒が刻まれた石板と、アロンの杖、マナを入れた壺が収められました。
ここで重要なのは十戒です。
つまり、律法の厳しさ、鋭さ、聖さというものに、人は耐えることができない。
神さまの正しさの前には、誰も生きていることができないということが表されているのです。

そこで、その箱には十戒を隠すための蓋が被せられました。
その蓋が、この25章で表されている「宥めの蓋(なだめのふた)」ですね。
実を言うと、僕は新改訳2017で変えられた「宥めの蓋」という翻訳よりも、以前の新改訳で書かれていた「贖いのふた」という言い方の方が良かったと思っています。
この蓋が表しているのは、神さまの義(正しさ)を覆うイエスさまの十字架の血だからです。
イエスさまのいのちによって、僕たちが贖われているので、僕たちは神さまの御前に出ることができる。
「宥めの蓋」には、そのような役割があったのです。

26章

聖所、至聖所

 

幕屋という移動式神殿の作り方についての説明が続いていますね。
26章は、特に聖所、至聖所の外を覆う部分と、しきるたれ幕について書かれています。

幕屋というのは、文字通り幕で作られているわけですが、イメージとしては大河ドラマなどで見る陣幕みたいな感じです。
武将たちが、戦場で作戦を練るときに張っているあれですね。
モーセ達は40年間荒野でさまようことになったので、このような移動式の神殿が必要だったのです。

神さまは、どうしてこのような幕屋/神殿を作るようにと命じたのでしょう?
神さまご自身は、幕屋や神殿を必要としていたわけではありません。
必要としていたのは、イスラエルの人々でした。
イスラエルの人たちが、神さまがともにいることを体験的に知るために与えられたのが、幕屋だったわけです。
神さまって、優しいですよね。

垂れ幕

聖所と至聖所の間には、垂れ幕で仕切られています。
ちなみに、聖所というのは、聖なる場所で、限られた人しか入ることが許されない聖域です。
そして至聖所は、さらに聖なる場所で、神さまの臨在が満ちていました。
至聖所には契約の箱が収められ、宥めの蓋がされていました。

宥めの蓋の上には翼を合わせた二頭のケルビムがあって、今回出てくる垂れ幕にもケルビムの刺繍がされています。
ケルビムというのは、天使の1種みたいなものですね。
言葉に説明がないことを考えると、当時一般的にも知られていたもので、カタチもある程度定まっていたようです。

後の時代にはギリシア神話などと混ざってこどもの姿をしている天使として描かれるようになりましたが、古代では動物のような形をしていることが多いですね。

さて至聖所と聖所を隔てている垂れ幕は、僕たちと神さまとの間を隔てるものとしての意味を持っています。
ここをくぐると神の領域であり、人が入ってはいけない場所という感覚ですね。

イスラエルがカナンの地に定住するようになってしばらくすると、幕屋の代わりに神殿が建てられますが、材料やサイズが違うものの、それも幕屋と同じような構造となっていました。
イエスさまが十字架にかけられて死んだときには、この垂れ幕が上から下まで裂けたと書かれていますね。

マタイ 27:51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、
27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。

これは、神さまと人との間に隔てられていたものが、イエスさまの十字架によってなくなったことを意味しています。
この時は、死人が生き返ったり、すごいことになってますよね。

27章

 

27章1-8節は、祭壇について。
ここでいけにえが焼かれるわけですね。
このいけにえは、もちろんイエスさまを表しています。

9-19節は、聖所の周りにある庭の部分についてです。
東側には幕屋の出入り口となる門がありますが、これもイエスさまを表しています。

ヨハネ 10:9 わたしはです。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

ともしび

20-21節は燭台についてですね。
このともしびも、やっぱりイエスさまが表されています。

ヨハネ 8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」