聖書のすべてが創世記1-3章でわかる(無料動画)

初めに

・聖書初心者向けの学び:聖書に何が書かれているのかという輪郭をつかむことが目的。
・キリスト教用語は可能な限り使わない。(三位一体などはこのセミナーでは触れない)
・神学的なベースに沿ってはいないため、おかしな部分があるかもしれない。現時点での私的理解に根差すものであり、この解釈や神学を主張するためのものではない。後に訂正するかもしれないし、どのように受け取るかは各自に任せる。

1:聖書の目的

聖書には何が書かれているのか?

・聖なる人々のいい話→ではない
・道徳やためになる話→ではない
・イエスという偉大な宗教者が説いた宗教書→でもない

・創造主である神について
・イスラエルという民族の歴史を通して表される人間の罪
・救いの道がどこにあるか、と救われるための方法
・生き方の指針

聖書の構造

・旧約聖書と新約聖書がある
・創世記1~11章が聖書全体の土台
・旧約聖書が新約聖書の土台となり
・新約聖書はその答え合わせ
・だから、旧約聖書から新約聖書まで合わせて知らないと、聖書は理解できない。
・しかし、その全体像が、創世記の最初に記されている。→だから今回は創世記1~3章について話をする。

聖書を読むときの注意

神は、人に合わせてくれている→すべてを鵜呑みにするべきではない。
当時の時代背景や文化、知識のレベルに合わせて伝えているので、そのまま現代に当てはめることはできない。

聖書では侵略戦争や奴隷制度、一夫多妻が肯定されているような書かれ方がされている。
それは、その時代の常識に合わせて神が関わってくれていたのであって、必ずしもそれが正しいわけではない。
だからこそ、平和運動や奴隷制度の廃止、結婚生活の健全性を求める働きなどは神のことばに従おうとしたクリスチャンたちを中心に起こった動きだった。

聖書には生贄の捧げ方などが記されている。

それは、当時の人々にとっての自然な礼拝方法が生贄を捧げることだったから。
では、神は生贄を食べるのか?→食べない

Ⅰサム 15:22 サムエルは言った。「【主】は、全焼のささげ物やいけにえを、【主】の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

イスラエルは後に、生贄を捧げる礼拝をやめたが、それは大きな問題とはされなかった。
安息日を始めとして、割礼や神殿なども、人々のためのものであり、神のためのものではない。

マル 2:27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。

神は、形式やルールそのものではなく、人々の心を見、心を喜ばれる。

1サムエル 16:7 【主】はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」

創世記1~10章

創世記1~10章は、聖書の中でも表現が神話的に描かれている部分。
これを事実として受け取るのもひとつの読み方だと思うが、これは当時の人々の感覚に合わせた書かれた方になっていると見ることもできる。(炭坑節で、「お月さんも煙たいでしょう」という表現と同じ)

いずれにしても、大切なのは、その言葉の中で何がポイントになっているのかということ。
「書かれていることが科学的ではない、歴史的事実と異なっている」と言って全てを嘘だと考えるのでは大切な事を見失ってしまう。
神が、聖書を通して何を伝えようとしているのかを受け取ることが大切である。

そしてそれを理解するためには、特定の民族の価値観や現代の価値観ではなく、聖書全体で語られている価値観に目を向けながら、その本来の意味を吟味していく必要がある。
「聖書の全てが創世記1-3章で分かる」というのがこのセミナーの趣旨だが、その解釈に関しては他の聖書箇所を引用しながら読み解いていかなければならない。
聖書は聖書自体によって読み解かれていく必要がある。

2:天地創造の神

創世記1章

創世記の1章は、文字通り創世の話。
ここでのポイントは、世界は神に創造されたものであるということと、神がどのような存在であるかという定義。
聖書の神は、世界創世の神である。

神ということば

神ということばは、日本語では「崇拝され、畏怖される存在」と定義される。
八百万の神を始め、「学問の神」など、人間が昇華して届くことができる存在でもある。
聖書の神は唯一絶対の創造主であり、日本語の神とは意味が違っている。
英語ではgodとGodという形で使い分けているが、日本語では同じなので混乱が生じてしまうように思う。

日本語で聖書の神を表しているのに近い言葉は、「天」という言葉。
「天才」「天災」「天命」「天寿」「天使」など、日本語の「天」は絶対的な存在としての神を表している。

中国では「天帝」と訳され、日本でも「天主」と訳された時代もあったが、日本語として定着することはなかった。
「天井」「天候」などただ単に上や空を指す言葉としても用いられる言葉でもあるので、やはり混乱は生じるのだと思う。
このセミナーでも「神」という言葉を使うが、ここで言う神とは天地創造の神であることを前提として聞いていただきたい。

天地創造

神は世界が始まる前から存在し、6日間で世界を創造したと聖書には記されている。
神はいつから始まったのかという問いはナンセンスである。
世に属する私たちには、それ以前のことなど認識することはできないから。

神による6日間の創造を文字通りに受け取っても構わないが、世界の創世の日数や、科学的な説明をすることは聖書の目的ではない。
創世記1~10章までは神話的な表現がされているので、世界の創造は本来よりもずっとシンプルに描かれている。
大切なのは、神は創造した一つ一つについて「それをよしと見られた」と表現されていることである。(創世記1:4,10,12,18,21,25)

世界は、神がそれをよしと見られるほどに素晴らしいものであった。
神が元々創造したこの世界は、本来素晴らしいものだったということである。

我々も、その素晴らしさを時々垣間見ることがある。
自然の壮大さに触れた時、人の優しさ、愛に触れた時などに、私たちは世界の素晴らしさの一端を見る。
いつも見ることができるわけではないのはとても残念なことである。

神は愛の関係を持つ

創世記だけでなく、聖書全体を通して見ることができるのは、人が神に語り掛けられるシーン。
それは、創造主である神は、人と関わりを持たれる存在だということ。
しかもそれは、愛の関係だと言う。

ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

Ⅰヨハ 4:8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。

創世記の中では、人とのかかわりの中に神の愛が表わされている。
神は人をご自身に似た者とし、ご自身のかたちとして創造し、世界の管理を委ねられた。
中央にある善悪の知識の木から取る以外の全てのことを許されていた。
だからこそ、悪魔は人を狙い、神に背かせようとしたのである。

3:人という存在

それは非常に良かった

「人間は神の失敗作」と言われることがあるが、聖書はそのように言っていない。
世界を創造し、「それをよしと見られた」神は、人を作り終わった後、その世界を見て今までとは違う感想を述べている。

創世記 1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

神がそれほどまでに評価したわれわれ人間とは、どのような存在なのだろう?

神に似せて、神のカタチとして創造された。(創世記1:26)

それは、神が私たちと同じ姿かたちをしているということではなく、神と同じ愛の性質を持ち、神と交流ができるということ。

神が自らを愛し人を愛するように、人は神を愛し互いに愛し合うように創造された。
神が創造するように、人にも創造する力がある。
動物も道具を作り、使うことができるが、無から有を生み出す芸術の世界は、人だけに与えられた神に似せられた部分だと思う。

個性を持つ者として創造された

人はそれぞれに個性を持っている。
個性に合わせた生き方があり、人生がある。
それぞれの才能や性質に合わせた使命や役割がある。

1コリント 12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

人は価値観や考え方が違うのは当然のこと。

画一的になることが本来の我々の姿ではない。
・同じ神を信じていても、役割や性質によって見えるものは違ってくるもの。
・また、人は一人で完結することはできない。

創世記 2:18 また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

この言葉は直接的には結婚に繋がっていく話だが、互いに助け合い、補い合って生きていくことの大切さが語られている部分でもある。
例え結婚するのでなかったとしても、私たちは助け合って生きていく必要がある。

世界を管理する者として創造された

人は、神が作ったこの 「よしと見られた」世界を委ねられている。

創世記 1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」

自然環境を守り、社会をうまく構築し、経済を動かし、人々の幸せを守ることも世界の管理。
神が創った世界は完璧なものだったので、その秩序を保ち、私たち自身がそこで幸せに生きるということが本来の姿だったのだろう。

自由意思が与えられている

人は、神の命令通りに動くだけのロボットのような存在ではなく、自由に考え、行動する意思が与えられている。
しかしそれは、神に背くことができるということでもある。
エデンの園の中央に置かれた「善悪の知識の木」の存在が、背くための方法だった。

創世記 2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

全てが許された中で、ひとつだけ神に背くという方法も与えられた。
神との愛の関係を築くように創られた人に、どうして背く能力が与えられたのか?
それは、背くという選択肢があって初めて愛は愛として機能することができるから。

「愛さなければならないから愛する」とか「仕方がなく愛している」は愛と呼ぶことはできない。(ここで変える)
強制されているものは「愛」ということはできないから。
愛は、愛さない選択ができる中で、しかし愛するという選択をするから愛と呼ぶことができる。

人は、神に命じられたことに従い、善悪の知識の木から取って食べないことによって、神を愛する選択を表現することができた。
しかし人は、神の期待を裏切り、神を愛さない選択をしてしまうのであった。
あなたは愛しますか?

4:罪が世界にもたらしたもの

まずは聖書箇所を読んで始めたい。

創世記 3:1 さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
3:4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。

悪魔と誘惑

ここで語られているのは、
① 私たちを罪に陥れる悪魔の存在があるということ
② 罪とは、「目が開かれて神のようになる」という悪魔の言葉に惑わされて神に背くこと

悪魔の目的は、人を殺すことでも悪いことをさせることでもなく、神に背かせ、神から引き離すこと。
そのために悪魔は、「神は正しくない」という言葉を信じさせようとした。
悪魔の誘惑は、「悪いことは楽しいよ~」というものではなく、何かを「正しいこと」だと思わせること。
悪魔の誘惑によって、私たちは「これが正しい」と信じて神に背いた行動をさせられる。
「自分は正しい」と思っている時こそ、実は一番アブナイ時なのである。

罪を勘違いしていませんか?

「罪」という言葉を聞くと、多くの人は「盗むこと」「傷つけること」など、悪い行いのことを連想する。
しかし聖書の中で繰り返し述べられている「罪」とは、必ずしも悪い行いのことを意味しているわけではない。
「神が命じたことに背いて、善悪の知識の木から取って食べた」ことが罪の本質。
それはつまり、神よりも善悪の知識の木から取って食べるという誘惑を選んでしまったということである。

罪とは何か?

① 神から離れている状態

聖書が語る罪とは、行いよりも状態のことである。
神とともにいたのに、神に背き、神との関係が壊れた状態のことを「罪」と呼んでいる。

② 自分が神になろうとすること

彼らにとって最大の誘惑となったのは、「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」という言葉だった。
また、このような言葉もある。

創世記 3:22ab 神である【主】はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。

「善悪を知る」というのは、つまり善悪を自分で決めるということ。
神ではない自分が善悪を判断し、自分を基準とするのは罪の本質的な問題である。

③ 神が創ったように生きないこと

「罪」という言葉は、原語では「マト外れ」という意味のある言葉である。
神から離れ、神の心が分からなくなった私たちは、本来生きるべき生き方をすることができない。
それぞれが自分の判断で、自分の正しさに従って生きようとしている私たちは、的外れの生き方をしているのである。

「次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」『彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。』『彼らの唇の下にはまむしの毒がある。』『彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」『彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」『彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ 3:10-18)」

創世記の3章中盤以降は、的外れになった人間がどうなったか、そして世界がどうなったかについて記されている。罪の結果

ありのままの自分として生きることができなくなった

はだかであることに気づいたアダムとエバは、イチジクの葉を綴り合せて腰の覆いを作った。創世記3:7
罪人となってしまった自分は、恥ずかしい存在となったから。
ありのままではいられず、自分を偽らなければならなくなってしまった。

神さまとの関係が壊れた

神が園に来た雰囲気を感じ取って、アダムとエバは神から隠れた。(創世記3:8-10)
私たちも、無意識に神を避ける。
神を求める心もあるので、私たちは自分たちで神を作り、その穴を埋めようとする。
自分で作った神は恐くないから。それが偶像崇拝である。

責任を回避し、転嫁するようになった

善悪の知識の木から取って食べたことを追及されたアダムは、それをエバのせいにし、エバを与えた神のせいにした。(創世記3:11-13)

人間同士の関係が壊れた

祝福だったはずのアダムとエバの夫婦としての関係は、壊れ、支配的な関係になってしまった(創世記3:16)

呪われた世界になった

完璧で素晴らしかったこの世界は壊れ、呪われた世界になってしまった(創世記3:17-18)
創世記ではいばらやあざみと表現されているが、病気や災害、事故などあらゆる災いは、神が創造した世界にもともとあったものではなかった。
神から離れた人とこの世界は、神の祝福も失ってしまったのだ。

死すべき存在となってしまった

永遠の存在だったはずの人は、土に還る存在となってしまった。(創世記3:19)
そして、神との関係は失われたものとなり、エデンの祝福を永遠に失ってしまったのである。(創世記3:22-24)

罪とは何か2

このように、神から離れて祝福を失った人類を、聖書では「罪人」と呼んでいる。
間違ってはならないのは、聖書では「罪の行いをする人を罪人と呼ぶ」のではないということ。「罪人だから、人は罪を犯す」のである。
この順番を間違えると、私たちは人を指さして「罪人め」と罵るようになる。
私たちはみんな、罪人となってしまったのだ。
そして、私たちの力では、それを覆すことはもうできなくなってしまった。
ここで終わったらこの話は絶望しかない。
しかし聖書には、絶望を覆す希望が記されている本なのである。

5:救い~私たちに求められている生き方とは?

聖書が言う救いとは何か?

一般的に、心の中にあるわだかまりや苦しみから解放された時、「私は救われた」と言う。

多くのクリスチャンは、死んだ後、地獄ではなく天国に行けるようになることを「救い」と呼ぶ。

しかし、ここまで聖書を見てきて分かってくるのは、聖書が言う救いとは、失ってしまった最初の祝福を取り戻すこと。
そしてそのために必要なのは、失われてしまった神との関係を回復することに他ならない。

そして驚くべきことに、人に救いを与える神の計画は、人が罪人となった次の瞬間から始まっていたことがわかるのである。

創世記 3:14 神である【主】は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。
3:15 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

これは、人を騙し、誘惑し、罪人へと堕とさせた悪魔への神のことばだが、悪魔への裁きと、人への救いがこの言葉の中で約束されている。
読み落としてしまいがちな救いの部分を解説しておこう。

15節の、蛇と女の間に、悪魔の子孫と女の子孫の間に敵意が置かれる。
ここで言う「女の子孫」は、複数形ではなく単数形が使われている。
つまり一人の人を指していることが分かる。
ここで言われている「女の子孫」とは、男に寄らず処女から聖霊によって生まれたイエス・キリストのこと。
救い主が与えられ、悪魔のたくらみを打ち砕くことがここで約束されているのである。

悪魔はキリストに傷を与えるが、キリストは悪魔にとどめを刺すことが預言されている。
悪魔は確かに、キリストを十字架につけ、命を奪うことになった。
しかし、その十字架によって人類に救いの道が拓かれ、悪魔のたくらみは打ち砕かれた。

救いについては、創世記3章の中にもう一つ記されている。

創世記 3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。

自分自身をいちじくで覆っていたアダムとエバに、神が皮の衣を作って彼らに着せられる。
皮の衣ということは、ここで動物が殺されたということ。
これは、世界が創られて初めて動物が殺された出来事だった。
ここでこの動物が何か書かれていないが、聖書の整合性を考えるなら、後に生贄として捧げられるようになった羊だっただろう。
そして、聖書の中で羊はキリストを表す伏線となっている。

つまり、アダムとエバは自らの罪の恥を自分たちで作ったいちじくの葉で覆うとしていたが、それでは十分に覆うことができなかったので、神が自ら羊を犠牲にして、それによって罪の恥を覆ったということ。
そして、後にはキリストが犠牲になったことによって、人類の罪の恥が覆われることとなった。

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。(ガラテヤ 3:27)」

キリストの誕生と十字架の死・復活だけでは意味が分からない救いだが、つまりはここで書かれていることの成就が十字架だということ。
聖書のこれらの箇所だけを見て、このように解釈するとこじつけのように聞こえるかもしれない。
しかし、旧約聖書全体がこのアナロジーによって書かれている。
1000年の月日を通して、何十人もの人々の手によって書かれた聖書に、このような共通のアナロジーがあるということ、そしておそらくは書いていた本人たちすらそのことに気づいていなかったであろうことが奇跡である。

さてある人々は、「キリストが十字架にかかったなら全ての人が救われたはずだ」という万民救済論に立っているが、私は同意することができない。
それは私が「救いとは神との関係の回復である」と考えるからである。
創世記1-3章を土台として聖書の全体像を考えるなら、救いとは本来のあるべき姿に戻ることだということが理解いただけるのではないだろうか?
なぜなら世界は、最初から良いものであり、素晴らしいものだったからだ。

罪が神との関係の破壊なのであれば、救いとは神との関係の回復である。
そしてイエス・キリストが十字架にかかったときに神さまとの関係の回復の道が拓かれた。
しかしその先には、私たちの選択が問われることになる。
「私たちが、神との回復を選択するのかどうか?」それこそが問題である。
そして、神との関係の回復のための方法は、キリストによって回復の道が拓かれたことを信じ、回復を受け取り、神との関係が回復した人として生き始めるということだ。

救いとは、「死んでから天国に行けるかどうか」という話ではない。
神との関係の回復、天の国は生きている時から入ることができ、味わうことができ、実践することができるものである。
そして、私たちが今神の国に生きるなら、神の国は永遠のものなので、死んだ後も私たちは神の国にいるということなのではないかと考えている。(図2)

そう考えると、私たちがクリスチャンとしてどう生きるべきなのかも見えてくる。
それは、私たちが神とともに生き始めるということだ。
神の声を聞き、神の声に従う。
この世界を管理し、自分に与えられた使命を果たすために、キリストの体の一部として生きていく。
神とともに生きるその生き方そのものが礼拝であり、その全てが賛美となる。

週に一度だけ、形式的な礼拝に出席するということを、その代用とするべきではない。
クリスチャンであるということは、所属する宗教の問題ではなく、生き方そのものだということを聖書は教えていると私は考えている。

創世記1~3章に記されていたこのことを土台として、聖書全体が書かれている。
あなたはどう考えるだろう? 自分自身で聖書を読んで、確かめてみて欲しい。