旧約聖書編2:祭司の時代 出エジプト記~申命記(エジプト文明)
古代エジプトの歴史
エジプト文明:もっとも古くから発達した文明のひとつ。
古代歴史家ヘロドトス(BC485-BC420)『エジプトはナイルの賜物』
ナイル川の上流から運ばれる豊かな土により、農業が発達した。
BC5000頃から農耕が始まり、BC3500年頃には象形文字(ヒエログリフ)が使われ始めるようになった。
ナイル川の周りにノモスという都市国家を形成し始める。
上流に20下流22のノモスが存在したが、次第に上流と下流でそれぞれ中規模の国を形成するようになり、BC3000年ころには、上下統合したひとつの王国が作られるようになる。
以後2300年に渡って、26の王朝が作られては滅亡していくことになる。
古代より、ファラオによる神権政治が行われた。
初期王朝時代(BC3000ころ~BC2700ころ)
第1~2王朝(創世神話の時代)
古王国時代:(BC2700~BC2200)首都はメンフィス
第3~6王朝
多くのピラミッドがこの時代に作られる。
BC2550年頃には、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の3大ピラミッドが築かれる。
第1中間期(BC2200~BC2000ころ)
第7~11王朝
中王国時代:(BC2000~BC1800)首都はテーベ
第11(南北統一された)~12王朝
第2中間期:(BC1800-BC1500ころ)
第13~17王朝(第15-16王朝は遊牧民族ヒクソスによる支配)
ヒクソスは歴史をほとんど記録しなかったため、詳しいことがわからない。
新王国時代:(BC1570年~BC1085年)首都はテーベ
第18~20王朝
イアフメス1世によりヒクソスが撃退され、始まったのが新王国。
エジプトのナポレオンと呼ばれる18王朝のトトメス3世は、周辺諸国に遠征してエジプトの領土は最大となった。
BC1360年にはアメンホテプ4世(イクナートン/アクエンアテン)がこれまでのアメン神信仰を廃止し、自らを唯一の神とするアテンの信仰を強要した。
日本で最も有名なツタンカーメンは、アメンホテプ4世の次のファラオ。
盗掘されることなく全てが残っていたため、世紀の大発見と言われたが、19歳という若さで死んだため、誰にも見向きされなかったものと思われる。
聖書とエジプトの歴史の話では、時代背景に色んな説が存在し、どれが正しいかを判断することは難しい。
今回は、現時点でもっとも有力でありおもしろいと思ったものを紹介する。
ヨセフ
創世記の時代に少し遡るヨセフの時代から、アブラハムの子孫たちはエジプトに移り住んだ。
兄弟たちに奴隷として売られてしまったエジプトの地で、ヨセフは神さまの力によってファラオの信用を受け、ファラオの次の地位を手に入れるにいたったのである。
文化的背景や、記録に残っている名前、モーセの時代には別の民族に変わったという描写から、ヨセフはヒクソスが支配していた時代にエジプトに渡ったのではないかというのが、多くの人々がたどり着いた意見である。
ヒクソスは遊牧民で、元々はカナンの方から渡ってきた民族。
ヨセフたちよりは少し前に、同じようなルートを通って渡ってきた。
彼らは言語的にも文化的にもヘブル人たちと近かったはずだが、ヨセフとその兄弟たちにとってはエジプト人であるという事実に代わりはなかった。
排他的なエジプト人たちがヘブル人であるヨセフを大臣として任命し、食糧の管理を任せた理由もうなずける。
モーセと出エジプト
出エジプト記には、ヨセフたちを知らない民族がエジプトを支配し、イスラエル人たちは奴隷になったと記されている。
そして、奴隷となったイスラエルがエジプトから脱出した物語が、出エジプトの物語である。
出エジプトの時のファラオが誰なのかということは長い間なぞとされていた。
映画「十戒」や「プリンス・オブ・エジプト」ではラメセス2世(BC1279-BC1212)がこの時のファラオであるという説が採用されている。
また、出エジプトの状況どころかイスラエルが奴隷となっていたという記録さえエジプト側からは見つからないため、懐疑主義者の間では出エジプトは全くの創作であるという扱いがされていた。
しかし近年、聖書考古学の立場からはさらなる発見や見解がなされている。
まず年代に関しては、ラメセス2世の時代という認識がされていたのは、「イスラエルの子らがエジプトに滞在していた期間は、四百三十年であった。(出 12:40)」という聖書の言葉が根拠のひとつとなっている。
しかし、モーセ五書に出てくる数字は象徴的なものが多く、実際の年数としては必ずしも当てにならない部分がある。
そこで、年数などに関してある程度確実性がある列王記の表記から逆算して考えてみる。
列王記 6:1 イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは【主】の家の建築に取りかかった。
列王記には何年の出来事だったかは載っていないが、バビロン捕囚の年数は分かっているので、そこから逆算すると、およそ1446年という数字が出てくる。
この場合には、トトメス3世の次のファラオ、アメンホテプ2世がこの時代のファラオということになる。
この時代が出エジプトの時代であることを裏付けるいくつかの話がある。
まず、この時代は第18王朝と呼ばれる時代で、初代のイアフメス1世(BC1570-BC1546)の時に先のヒクソスが倒され、エジプトから追放されたこと。
エジプト人にとっては同系統であるヒクソスとへブル人の差は分からず、混同していた可能性が高い。
そこでこのヒクソス追放を出エジプトと考える人たちもいるが、少し年代が合わない。
ヒクソス追放がありつつも、多くの人たちがその後奴隷とされていた形跡もあり、むしろそこにヘブル人(イスラエル)がいた可能性もある。
1446年を出エジプトの年と考え、出エジプト記の記述通りモーセが80歳の時にそれが起こったと考えると、モーセがファラオの娘に拾われたのがトトメス1世(BC1524-BC1518)の時。
すると、モーセを拾ったのはトトメス1世の娘であり、後に女王となったハトシェプストである可能性がある。
ハトシェプストにはお気に入りのアドバイザーがいて、その名をセネンムトという。
セネンムトは女王から大きな評価を受け、信頼していたのにBC1486年に突然姿を消している。
そして、彼のために作られた墓は製作途中のまま放置されていたことが分かっている。
出エジプトが起こる40年前にモーセがエジプト兵を殺して失踪した年と一致している。
もちろんセネムントがモーセと同一人物だったかどうかはわからないが、大きな可能性を秘める話である。
十の災い
モーセがイスラエルを解放するようにファラオに訴えた時、ファラオがそれを断ったため、エジプトには10の災いが起こった。
このうちの、9までの災いに関しては、火山によって説明ができる。
① 川が血に染まる…地殻振動により海底の鉄分が浮上し、酸素に触れて酸化したために赤くなった。(1984-86年にカメルーンのニオスでこの現象が観測されている。)
② 蛙の死…水質が悪化し、大量のカエルが川から逃げて地上に上がってくることによって発生。しかし、水が不足して大量死してしまう。
③ ブヨの大量発生…死んだ魚や蛙によって大量発生。
④ アブ(ハエ?)大量発生…ブヨなどと同様に環境が悪化すると異常繁殖する。
⑤ 家畜の疫病…汚染された水を飲むことによって家畜に疫病が発生。
⑥ 腫れ物…地中から噴き出したガス(CO2)によって水ぶくれのような皮膚病が起こる。(①と同じカメルーンで発生した)
⑦ 雹…火山灰に天高く舞い上がることによって雹の粒となり降り注ぐ。火山は大気の状態を不安定にし、激しい嵐を起こす。
⑧ イナゴの大量発生・・・・火山灰と雨によって激しい気温差が起こるとともに、湿地帯が多く出来たため大量繁殖が発生。
⑨ 暗闇…噴火による火山灰で太陽が隠れた。また、湿気により深い霧も発生した。
⑩ 初子の死…
他にも、葦の海の水が割れたことも火山による地震が原因となる津波によって水が引いた現象だと解釈することもできる。
また、イスラエルは荒野をさまよった時、火の柱、煙の柱によって神さまの導きを受け、旅をした。
これらも、火山活動の後に近隣のガスや石油が噴出してできた火の柱として説明することはできる。
この時の火山はエーゲ海のサントリーニ島の噴火だったのではないかという説がある。。
これは、アトランティスのモデルとも言われる火山で、ギリシャの近くにあった島だった。
紀元前1600~1400年頃、島の半分以上を吹き飛ばす大噴火が起こり、エジプトのあたりでもこの時のものとみられる火山灰が観測されている。
ナイル川からは地中海を挟んだ反対側ではあるが、サントリーニ島から繋がる地殻断層がナイル川やシナイ半島の辺りと繋がっていることから、このような災害を起こすことは十分にありうることである。
サントリーニ島の地質学的な噴火時期と、十戒とは一致していないが、この辺りはエーゲ海プレートで火山活動も活発なので、同じような規模の噴火が他に起こっていたとしても不思議はない。
これらの奇蹟を自然現象として理解しようとする見方は、神さまの奇蹟を否定する冒涜的な見方だという人もいるかもしれない。
しかし、それもまた神の業なのであり、自然現象をこのようなタイミングで起こすことを通して表したことそのものが奇跡だとも言える。
トーラ―
イスラエルがエジプトから脱出した後、モーセはシナイ山で神さまから十戒を受け取った。
十戒を主体としながら、具体的なことについて神から語られたことがモーセ5書には記されている。
創世記から申命記まで5書が「トーラ―」と呼ばれている。
「トーラ―」は日本語では「律法」と訳されているため、法律のとして理解されがちだが、元々は裁判の時などにもちいられたものではなく、法律としての用途はなく、「法」というようなものではなかったことがわかる。
また本来は、「こういう時にはこのようにしなければならない」というようなルールでも、規範でもない。
歴史を通してそのような受取り方がされるようになり、律法学者と言う「律法を学問する」人々が現れ、宗教上の規律や戒律のようになっていったのは、バビロン捕囚の後から。
そこで聖書のことばと神さまとの関係という信仰は、「ユダヤ教」という宗教となり、規律や戒律を守らなければならないものとなっていったのである。
トーラ―の本来の意味は「教え」である。
物差しのように、「このときはこうしなければならない」というようなものではなく、「神さまが喜ぶのはこういうこと」ということについて書かれている。
そしてそれは、トーラ―が与えられた時代の人々、その文化の人々に向けて与えられたものなので、私たちはそれをそのままのカタチで実践されるべきことではない。
聖書はユダヤ教の影響のもとで翻訳されていることもあり、「~してはならない」「~しなければならない」と訳されているが、本来は「このようにしなさい」という言葉の方が相応しい翻訳になる。
例えば空手のような武術を教えるとき、「型」学び、型の通りに体を動かすことを学ぶ。
しかし、実践で型の動きそのまましか動いてはならないとしたら、実際に戦うことはできないだろう。
トーラ―とは、イスラエルの人々にとって「型」のようなものである。
型を通して正しい体の動かし方を学び、戦いに備える。
トーラ―の教えを通して神の心を知り、それを元にして実践をする。
安息日の適用に関してのイエスさまと律法学者たちのやりとりを考えてみよう。
トーラ―にはこのように書かれている。
出エジプト記 31:14 あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。
31:15 六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は【主】の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
これを「守らなければならない律法」として理解していた律法学者たちは、イエスが安息日に人を癒すかどうかを試して、訴えようとした。
しかしイエスさまはこのように答えた。
マルコ 12:10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。
12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。
12:12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」
これはイエスさまが律法を破ったという話ではないし、律法の新解釈でもない。
トーラ―にある神の心を理解し、それを適用するならば、安息日にも人を癒すのは当たり前だということ。
宗教化し、トーラーを「律法」に変えてしまったユダヤ教としてではなく、本来のトーラーのあり方を示したのである。
では、神に与えられた安息日とは何か?
それは、ただ生きるために働き、働くために生きるのではなく、人には安息が必要なことを教えている。
それは、命ほどに大切な教えなのだ。
「安息しなければ死を」と言うことは、「安息させなければ死を」ということでもある。
人は安息しなければならず、週に一度休んでも、主とともに歩む限り、主が必要を備えてくださるのだ。
そして安息は、自分の力で生きることに安息し、主が生きてくださることも意味している。
それが本来の安息日の意味であり、私たちも適用できる安息日の生き方である。
トーラ―の倫理観
トーラーの教えが「~してはならない」「~しなければならない」というものでないなら、トーラーに記されていることは守らなくてもいいということなのか?
もちろんそうではない。
ここでまず、古代社会の価値観について伝えておく必要がある。
古代の社会において、悪とは人に害を与えることだった。
見つからなければ問題ないし、例え見つかっても相手がそれを受け入れれば悪とはならないという価値観である。
社会が変化し、コミュニティが大きくなるにつれて、「法」が定められることによって基準が引かれるようになった。
そして裁判によってどちらが正しいか、客観的な決断がされる必要が出てきたのである。
しかし、古代において法は平等なものではなく、力を持つ者が支配するためのものだった。
「見つからなければいい」「自分も相手も悪いと思わなければいい」という価値観、「力ある者のための法の制定」は、古代社会だけが持っていたものではなく、現代でも普通に存在している。
「恥の文化」と呼ばれる日本の倫理観もまた、それと同じものである。
しかし、トーラーは「倫理観」に大きな変革をもたらした。
第一に、身分に左右されない平等な視点である。
最古の法と呼ばれるハムラビ法典にある「目には目を、歯には歯を」という言葉は、同じ階級の者だけに適用された法である。
下の階級の者が上流階級にけがを負わせたら、容赦なく命を持って償わなければならなかった。
古代社会では、それは当たり前の価値観だったのである。
一方、同じような言葉が記されている十戒では、似ているようでその意味合いが全く違う。
レビ 24:17 人間を打ち殺す者は必ず殺されなければならない。
24:18 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。
24:19 人がその同胞に傷を負わせるなら、その人は自分がしたのと同じようにされなければならない。
24:20 骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。
24:21 家畜を打ち殺す者は償いをしなければならず、人間を打ち殺す者は殺されなければならない。
24:22 このさばきは、寄留者であれ、この国に生まれた者であれ、あなたがたには同一である。わたしがあなたがたの神、【主】だからである。」
いのちにはいのちで償われる。
この原則は、当時の社会ではありえなかった、身分を超えた平等な扱いが記されている。
これは、古代の社会ではあり得ないほど画期的なことであった。
奴隷であっても扱いが同じになるため、奴隷とそうでない者の差はほとんどなかったことになる。
トーラーがもたらしたもう一つの変革は、この章の最後にある「私があなたの神、【主】だからである」という言葉である。
これは、「誰かが見ているから」、「誰かが認めるかどうか」ではなく、全ては神と私の関係の中において守られるべきことだという視点。
例え誰も見ていなくても、神さまの御心を求め、正しいことをして生きたいと願う。
これもまた古代社会ではなかったものであり、現代の社会にあっても、多くの人たちが持たない視点である。
この感覚は信仰を持ち、神さまとの関係を意識する人だけが持つ感覚である。
信仰を持つということは、自分の思いや人の視線・価値観によって左右されるのではなく、神の心を求めるということである。
この感覚を持つことによって私たちの生き方は変わっていくのである。
しかし、イスラエルの人たちは信仰を失うことによってこの視点を失っていった。
だから聖書に記されている神が下す裁きは、「行いによって」ではなく、「信仰を失うことによって」下されるものなのである。
私たちは、神との関係を第一としているだろうか?
心を尽くし、思いを尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛すること。
それが、自分自身と同じように隣人を愛することに繋がっていく。
これこそが神の「教え(トーラー)」の中心であり、私たちが生きる道なのである。
