旧約聖書編3:カナンとの戦いの時代 ヨシュア記、士師記、ルツ記
カナン人とは
地理的にはカナンの地域に住んでいた多民族のこと。
聖書では特に、ノアの孫、カナンから出た士族のことを指す。
シドン人、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アキル人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人がそれにあたる。
カナンの歴史
カナンは文明においてはメソポタミヤ文明の一部として位置づけられる。
文明の発達の重要な条件とされる川(ヨルダン川)はありつつも、チグリス・ユーフラテス川ほどには豊かな土地とはならなかった。
しかし、同時期に発達していたエジプト文明やエーゲ文明の間にも位置していたため、商業的に重要な地域となっていった。
古代史においてカナンはオリエント支配のための重要な拠点となり、様々な大国によって争われ、支配を受けるようになる。
現代に至るまで、世界の争いの中心となっていることには、そのような地政学的な理由がある。
多くの人々は、この争いが宗教的な理由であるとして宗教を否定しようとするが、このような争いが盛んな地域だったからこそ、この地域の人々は一致団結するために宗教的な強さを身につけて行ったのである。
シリアから流れてくるヨルダン川は海にまで達することなく、死海で蒸発してなくなってしまう。
そうして死海は塩分の濃度が強くなっていき、海の6倍の塩分濃度となっている。
それほどまでに乾燥した地域であるということと、死海が海面よりもずっと低いところにある(地上で最も低い場所)ため、そこから海まで流れ出すということがないことがその理由である。
周辺の荒野に比べれば豊かではあったが、農耕に適していると言えるほど肥沃な土ではないこともあり、この地域では遊牧生活が発達していった。
次第に各民族の間でメギドやエリコのような都市国家が形成されつつも、いくつかの民族は農耕生活に移行できるほどの豊かな土地も技術もなく、半遊牧民のような生活をしていた。
アブラハムが活動していた青銅器時代中期(BC2000-BC1550)になると貿易も盛んになり、都市国家がますます増えていった。
メソポタミヤやエジプトの文明のように農耕文化による発展ではなく、商業的な発展である。
この時期、多くのカナン人がエジプトに移住を始め、BC1700年ころにはエジプトを倒し、ヒクソス人によるエジプト支配が始まる。
エジプト人はこの経験を通してカナン人を警戒するようになり、BC1570年にイアフメス1世がヒクソスを倒すと、カナンに対する警戒を強めていった。
トトメス3世の時代にはカナンの地域に進出し、支配を広げている。
これはモーセの時代とも重なっていて、モーセたちが40年間荒野をさ迷っていた理由の一つは、エジプトの支配が弱まるまで守られていたからではないかという見方もできる。
カナンの宗教
シュメール人から始まったシュメール神話から発展したメソポタミヤ神話の中のひとつ。
メソポタミヤでは文字や神話を始め、多くのものを利用転用し、自分たちの民族や文化に合わせて適用していった。
その流れの中で作られていったのがカナン神話である。
中でも、フェニキア神話、ウガリット神話などがこの流れを汲んでいる。
エルを創世の主神とし、豊穣の女神アシェラ、王子であり神話の主人公バアル、死を司るモト、水と海の神ヤムなどがいるが、物語やそれぞれの関係性は様々なものが見つかっていて一貫していない。
ここで主神とされる「エル」という言葉は、旧約聖書の中でも神を表す言葉として用いられていて、象徴として牛が用いられる。
また、神話の中心人物であり信仰の対象となっているバアルは、「主」という意味のことばで、聖書と文化的に近い部分が見られる。
バアル信仰は偶像崇拝であり、生贄として赤ん坊を捧げたり、神殿娼婦との性交が祝福をもたらすとされていたことなどが聖書には記されている。
神を主とし、神に聞き従うことが大切だった神との関係に対して、偶像崇拝はなかなか自分たちの思い通りにならない自然の摂理や幸運などを自らの行いによって操るためのものである。
それはあるべき神との関係とは程遠く、忌むべきものであったが、多くのイスラエルの人々が影響を受けることとなってしまった。
聖絶(ヨシュア記)
多くの人が聖書の中でつまずく一つの出来事が「聖絶」である。
申 20:17 すなわち、ヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、【主】が命じられたとおり必ず聖絶しなければならない。
これを理解するためには3つのことに目を留める必要がある。
第一に、この時代と現代とでは価値観が大きく違うということ。
古代社会において、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかということは常に直面している問題だった。
相手を倒さなければ自分たちが倒され、相手を滅ぼさなければ自分たちが滅ぼされる。
もとは奴隷であり、ろくな武器もなく、兵士としての訓練を受けていないイスラエルが戦いで勝利していくことは、それ自体が奇跡だったのだということ。
第二に、カナンの人々には悔い改めのチャンスが与えられていたということ。
カナンが聖絶されるには、それなりの理由があった。
この地がアブラハムの子孫に与えられるという約束がされたとき、カナンはすでに罪が広がり、滅ぼされる必要のある状態だった。
ソドムとゴモラはそのようにして、アブラハムの時代に滅ぼされることとなった。
他のカナンの人々には、そこから400年の悔い改めの期間が与えられていた。
ソドムとゴモラの滅亡は、彼らにそのことを気づかせ、思い出させる機会にもなっただろう。
しかし、カナンの人々はついに悔い改めることなく、その地に罪の根を伸ばし続けたのである。
第三に、神さまはイスラエルに最初からカナン人の聖絶を命じていたわけではないということである。
神さまの本来の計画は、イスラエルが祭司の民となり、他の民族に神さまのことを伝え、彼らと神さまを繋ぐことだった。
出エジプト 19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
その計画が変更されたのは、イスラエルが神さまに従わなかったから。
カナンの偶像崇拝と罪の影響があまりにも大きく、このイスラエルでは人々に福音を伝えるどころか逆に影響を受けてしまうから。
アロンの命令で金の牡牛が作られた後、神さまの命令はこのように変わった。
出エジプト 34:11 わたしが今日あなたに命じることを守れ。見よ、わたしは、アモリ人、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。
34:12 あなたは、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないように注意せよ。それがあなたのただ中で罠とならないようにするためだ。
34:13 いや、あなたがたは彼らの祭壇を打ち壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。
偶像崇拝に問題を抱えるイスラエルは、カナン人の偶像を破壊するのでなければ簡単に影響を受けてしまうからである。
そこから次に世代が生まれ、育っていくにしたがって神さまの命令はもう少し変わっていく。
民数記 33:51 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがヨルダン川を渡ってカナンの地に入るときには、
33:52 その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払って、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳像をすべて粉砕し、彼らの高き所をすべて打ち壊さなければならない。
カナン人を聖絶しなければならないという話は、ここからさらに後のことである。
聖絶とは、「攻め滅ぼす」ということだが、直接的な意味は対象となる人や物を完全に神さまに捧げること。
奪って自分のものにはしないということである。
レビ 27:28 ただし、人であれ家畜であれ、自分の所有の畑であれ、自分の持っているすべてのもののうちで、【主】に対して聖絶したものは、何であろうとそれを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶の物は最も聖なるものであり、【主】のものである。
武器を持った戦いであるため、相手を殺すということも当然あったが、女子供にいたるまで虐殺するということでは必ずしもない。
「殺さなければならない」という記述もあるが、伝えようとしているポイントは「その土地から完全に断たれる必要がある」ということ。
それは全て、カナン人たちが近くにいればイスラエルが影響を受けてしまうからである。
偶像崇拝の誘惑はそれほど大きく、イスラエルの上に圧し掛かっていたのである。
エリコ
ヨシュアが約束の地に入った時、最初に攻略したのはエリコだった。
エリコが最大の難所であり、エリコを倒すことができれば他の都市国家も倒せるだろうというくらい困難なのがエリコだった。
しかし神さまは、その前に「神の軍の将」を送り、これからイスラエルが経験する戦いは全て神の戦いであり、人の戦いではないことを表していた。
エリコの攻略のために神さまが与えた作戦は奇妙極まりないものだった。
エリコの城壁の周りを毎日1週ずつ回り、7日目には7回回って大声で鬨の声を上げるというもの。
イスラエルがその通りにすると、なんとエリコを覆っていた強固な城壁は崩れ、イスラエルは一気にエリコを攻め滅ぼした。
エリコの遺跡には、城砦が崩れた後が確かにあって、エリコは最終的には町中を包んだ大火災によって滅ぼされたことがわかっている。
城壁がどうやって崩されたのかは未だになぞのままだが、崩れた城壁が丘を埋めることになり、外部の人たちが一気に攻め込みやすい状態になっていたことが遺跡によってわかっている。
つぼには穀物が貯蔵されたままになっていて、この町が倒された後には長い間放棄されたままだったという聖書の記述と一致している。
アマルナレター
20世紀初めに、エジプトのテル・エル・アマルナで発見された粘土板の手紙は、BC1369-BC1352年辺り(ヨシュア記から士師記の間くらいの時代)に記されたことが分かっている。
それは、カナンの地域の都市国家群から、当時のファラオであるイクナートン(アメンホテプ4世)に宛てられた手紙であり、カナンが「ハビル人」の侵略に対して援助を求める手紙である。
都市国家の連名の中には、ヨシュアによって倒されていたエリコ、アイ、ベテル、ギホン、シロ、ミツパなどの名前は含まれていない。
考古学的な記録がほとんど存在しなかった「ヘブル人」の存在が確認されたとともに、ヨシュア記に記されていることがかなり正確に証明されたことになる。
ヨシュア記の目的
・ アブラハムの時代からの約束の成就。
アブラハムの子孫は砂の数ほど増え、一つの民族、一つの国となり、カナンの地が与えられる。(イスラエルの地図)
・ モーセの約束
申命記18:15 あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。
ヨシュアはその最初の預言者。以降も様々な預言者が神によって任命されるが、最終的にはイエスさまの繋がる。
・ イエスさまの型
「主こそ救い主」という意味を持つ、イエスさまと同じ名前の預言者。
約束の地へと導いたヨシュアの働きは、私たちの天の御国へと導くイエスさまを表す伏線でもあった。
士師記
ヨシュアによってカナンの地を手にしてから、サムエル記の王国時代へと繋ぐ間の期間の話し。
この期間には2つの大きな問題があった。
① カナン人の聖絶に失敗。
土地を得たことで安心して居心地がよくなり、カナン人を倒すことをやめてしまった。多くのカナン人が国内に残り、イスラエルに偶像崇拝の影響を与えるようになった。
② 信仰の継承に失敗。
ヨシュアの次の世代は神を知らず、信仰があいまいになってしまった。
出エジプトも、カナン攻略も経験していない人々は、神の力も経験していなかった。
その結果、イスラエルは神から離れ、カナンの偶像崇拝に呑み込まれていった。
各部族では多民族による危機的状況が訪れ、その痛みや苦しみを通してようやく神さまを求めるようになった。
イスラエルが神に立ち返ると、そこには「裁き司」が起こされ、神の力によって危機が解決した。
状況と敵は違えど、このようなことが7回繰り返されているの士師記の時代である。
裁き司
士師と裁き司は同じ言葉。
士師というのは中国語の翻訳である。
英語でJudgesとされるこの言葉は、裁判官のようなイメージを与える。
しかし彼らは何も裁くことはなく、リーダーですらない。
本来の役割は、「問題を解決する人」英語ならFixerである。
裁き司 敵 章
ユダ族オテニエル アラム人 3:7-11
ベニヤミン族エフデ モアブ人 3:12-30
シャムガル(小) ペリシテ人 3:31
デボラ/バラク ハツォル/カナン人 4-5章
ギデオン ミディアン人/アマレク人 6:1-8:32
トラ(小) 10:1-2
ヤイル(小) 10:3-5
ギルアデ人エフタ アンモン人 10:6-12:7
イブツァン(小) 12:8-10
エロン(小) 12:11-12
アブドン(小) 12:13-15
サムソン ペリシテ人 13-16章
裁き司たちは、信仰の深い人々ではなかった。
どれも、神の一方的な選びによって裁き司になっていて、預言者などの場合と違い、彼ら自身の信仰は問題とされていない。
神は信仰の薄い人たちも用いることができることの証拠でもあり、しかしそれは本人にとっても周りの人たちにとっても必ずしもいい結果をもたらしていない。
ただ、そこにある外敵という問題だけは神によって解決していった。
士師記の後半は、そのような誰もが信仰を失ってしまった時代にどれだけ大きな混乱が起こったかという後味の悪いエピソードで終わっている。
士師記を通して語られていることは、選ばれた民であっても、神さまとの関係が壊れれば祝福を失うということ。
近隣の民族の侵略は、イスラエルにとってはウェイクアップコール。
その度に神に立ち返るものの、本質的な信仰がなければ同じことを繰り返すだけである。
こうしてサムエル記の時代に繋がっていくが、士師記の対比としてのルツ記が挿入されている。
ルツ記
ルツ記はダビデの出生、さらにはキリストの出生へと繋がる話だが、それだけではない。
士師記でイスラエルの人々が神さまから離れ、大変な状況に陥っていた時、神に従う道を進み始めていたのはモアブ人ルツだった。
イスラエルが神さまから離れていく一方で、異邦人が神を求めるのは新約聖書でよく見られるが、この頃から起こっていた。
これは、神さまが最初から計画していた異邦人の救いに繋がる明確なしるしである。
士師記の時代の不従順なリーダーシップは、そのままサムエル記のサウルへと引き継がれていく。
一方で、ルツ記で見せたルツの従順はダビデへと受け継がれていく。
そしてその血脈は、救い主へと繋がっていくのである。
