Iコリント4:14-21 Iコリント9『神の国は力にある』2022/09/04 けんたろ牧師

1コリント 4:14-21
4:14 私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。
4:15 たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
4:16 ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。
4:17 そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
4:18 あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。
4:19 しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。
4:20 神の国は、ことばではなく力にあるのです。
4:21 あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか。

パウロが福音を宣べ伝えて始まったコリントの教会は、分裂という問題に直面していた。
ある人はパウロにつくと言い、ある人はアポロに、ある人はケファ(ペテロ)に、そしてある人はキリストにつくと主張した。
そんなコリントの教会が、再び一つになれるようにと書いたのがこの手紙。

パウロは、コリントの教会が分裂という問題に直面していた理由の一つが、彼らの傲慢にあることを見抜いていた。
4章の前半では、彼らが自分を王であるかのように思い、振舞っていると皮肉を込めて指摘した。

① パウロに倣う
そんな流れから、今日の箇所が始まる。

4:14 私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。

「これらのこと」とは、「あなたたちは自分を王だと思っているのか」と皮肉を込めて叱責したこと。
多くの人々はその言葉を目の当たりにして返す言葉もなかっただろうが、それは彼らが方向転換するために必要なことだったのだ。

この後パウロは、自分が彼らにとっての霊的な父であり、コリントのクリスチャンたちの多くをキリストの元に導いたのは彼だったことを思い出させた。
そして、だからこそ霊的な父である自分の言葉を聞いて欲しいと嘆願する。
それは、子が父に倣って似ていくのと同じように、あなたたちも私に倣って欲しいということだった。

4:16 ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。

実はこの言葉の中にも皮肉が含まれているように思う。
コリントの教会の問題は、「パウロ派」や「アポロ派」になることだったからだ。
その上でパウロは、単なる派閥を作るのではなく、本当に私のようになりなさいと促しているのだ。

② テモテ
そのことを知ってもらうために、パウロがコリントに遣わしたのはテモテだった。

4:17 そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

テモテとはどんな人物だろう?
パウロがテモテに宛てた手紙を読んでいると、テモテがまだ若者だったことがわかる。
しかしパウロとともに過ごす中で様々なことを学び、若くても信頼置ける働き人となった。
テモテ自身が、まさに「パウロに倣う者」だったのである。

そんな若いテモテが模範となって彼らのところに行き、コリントの人々にも影響を与えた。
「知識や経験が足りないから無理」という言い訳は誰にもできなくなったことだろう。

③ 神の国は、ことばではなく力にある
パウロはこのように続けている。

4:18 あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。
4:19 しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。

パウロのこのような言い方を見ていると、パウロ派やアポロ派を形成した人たちは、それぞれの権威を笠に着て偉そうにしていたのだろうと想像する。

現代の日本と言うクリスチャンが少ない中にも、自分の心棒する神学を前面に出して、「自分こそが正統であり正しい聖書の理解をしている」と言ってくる人たちいる。
そういう人たちにとって、「ことばではなく力を見せてもらいましょう」という言葉は脅威ではないだろうか。

4:20 神の国は、ことばではなく力にあるのです。

と、パウロは言っている。
どれだけ偉そうに、言葉だけ語っていても、生き方や行動が伴い、そこに力がなければ仕方がない。
これは、「信仰によって救いがある」とするパウロの言葉と矛盾すると言われていたこの言葉とも一致している。

ヤコブ 2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
2:15 兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。
2:17 同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

この言葉があるために、マルチン・ルターはヤコブ書をわらの書と酷評したが、パウロもちゃんと同じようなことを言っていたことがわかる。
そして、これは私たちすべてのクリスチャンに見たくない現実を突き付けてくる。

私たちの信仰には、力があるだろうか?
それは言葉だけになっていないだろうか?
御言葉をどれだけ暗唱し、理解し、語ることができても、私たちが御言葉に生きていないなら、そこに力が伴わないなら、それにどれだけの意味があるのだろう?
単なる知識と、信仰の間には大きな差があるのである。

4:21 あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか。

とパウロは言うが、パウロは物理的にむちを持って行く必要などない。
なんだったら、パウロが物理的にコリントに来る必要すらない。
「神の国はことばではなく力にある」という言葉そのものが、私たち自身にとってむちとなり、あるいは柔和な愛で包まれる体験となるのではないだろうか?

私たちが、力を伴って神の国に今生きる者となれますように。