Iコリント5:1-13 Iコリント10 『罪のパン種』2022/09/11 けんたろ牧師

1コリント 5:1-13
5:1 現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。
5:2 それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。
5:3 私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。
5:4 すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、
5:5 そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
5:6 あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。
5:7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。
5:8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。
5:9 私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。
5:10 それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。
5:11 私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。
5:12 外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
5:13 外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」

コリントの教会に起こった、クリスチャン同士の分裂を解決するために書かれたのがこの手紙。
ところが、5章から少し内容が変わってくるように見える。
私たちはパウロの真意を受け取りながら、この手紙の中で書かれていることをしっかり考えていく必要があるだろう。

① 罪の問題
コリントの教会には分裂という問題があることを学んできたが、コリンではもう一つ別の問題が起こっていた。
それは、罪の問題である。
コリントでは特に、不品行の問題が大きくなっていた。

5:1 現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。

文化による部分も大きかったかもしれないが、コリントでは特に、性的な乱れが問題になっていた。
そしてパウロは、この手紙の中でそのような人たちは取り除くべきだったのではないかと言っている。

② 罪のパン種
なぜ取り除くべきなのかと言うと、罪はパン種のように増え広がり、全体に影響を与えるようになるからだ。

パン種とは、パンを作るときにこねた小麦に混ぜるイーストや酵母が入った小麦のこと。
昔はパンを作るときに焼く前の小麦を少し残しておいて、それをパン種と呼んだ。
次のパンを作るときには、新しい小麦にそのパン種を混ぜると、イースト菌や酵母菌が新しい小麦ににも広がって全体を膨らませるようになる。

目に見は見えないけれど、それが少しでも入っていれば増えていくので、ユダヤ人たちは罪とはまさにパン種のような性質を持っているものだと考えていた。

壁に落書きがある町は犯罪率が上がるという話を聞いたことがあるだろうか?
罪とはそのように、周りに影響を与えて広がっていく性質を持っているので、私たちは罪のパン種に気をつける必要がある。

③ 罪とは何なのか
パウロは手紙をこのように続けている。

5:9 私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。
5:10 それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。

この手紙はコリントへの第一の手紙とされているが、この部分を見ると、どうやら実際には、これより前に少なくとももう一通は手紙が書かれていたことが分かる。
それはさて置き、パウロはその手紙の中で「みだらなものとは関係を絶つように進めていたという。
しかしそれは、私たちが世捨て人になって、罪のある人と一切関わらないようにしなさいということではない。
それでは、世の中から自分を切り離すことになってしまうだろう。
大切なのは、罪を犯している信徒に関わらないようにしなさいということである。

5:11 私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。

しかしここで疑問が残る。
パウロのこの言葉は、イエスさまが姦淫の女の時に行ったことと矛盾するのではないか?
イエスさまは「私もあなたを裁かない」と言っていたのに、ここではそういう人たちと付き合ってはならないという話になっている。

これを考える上で大切なのは、私たちは罪の本質がどこにあるかということを忘れてはならないということ。
罪の本質は、行いではなく神さまとの関係にある。

「どの行いは罪で、何はOKなのか」という発想で考えると、私たちは表面的なことばかり気にするようになり、互いに相手を裁くことにばかり熱心になっていってしまう。
罪の本質は、神さまとの関係が壊れたままの状態のこと。
ダビデはたくさんの罪を犯したが、その度ごとに神さまに立ち返ったので、神さまから最も愛された王となっていた。

神さまとの関係が正常であれば、罪の行動にも葛藤があり、失敗を通しても神さまとの関係は深まっていく。
しかし正常ではない関係は、神さまを侮り、神さまのことを忘れ、離れ、自分を正当化するようになっていく。
つまりここで問題になっているのは、罪を認めて悔い改めようとしている人の話ではなく、開き直って罪を犯し続けている人のことだということである。
それが姦淫の女と、コリントの人々との決定的な違いだった。
恐らくは、そういう人たちによってコリントの教会は牛耳られていて、彼らが直面していた分裂の問題も、それが原因となっていたのだろう。

④ 内部の人を裁きなさい?
もうひとつ、この箇所も他の聖書箇所との矛盾を感じるところだと思う。

5:12 外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
5:13 外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」

パウロは、「互いに裁き合ってはいけない」と話していたはずではないのか?
ここには、「外部の人たち」とは誰であり、「内部の人たち」が誰かと言う理解が必要になる。

ここでパウロが言おうとしているのは、「互いに裁き合う」ことではなく、「自分たちの問題を省みて裁いていく必要がある」ということ。
そう考えてみると、コリントが直面していた分裂の問題ともちゃんと繋がっていることがわかる。

私たちは、他人の問題は批判し、口を突っ込みたくなるけれど、自分の問題や内輪の問題には目をふさぎたくなってしまう傾向がある。
私たちが本当に取り組んでいくべきは、「外の人たち」ではなく、自分たちの問題なのだということを、私たちは忘れてはならない。