使徒11章 アンティオキア教会の誕生と、異邦人受け入れをめぐる議論

あらすじ

コルネリオの家で異邦人にも聖霊が注がれた後、その知らせはエルサレム教会にも届きます。

すると割礼を重視するユダヤ人信徒たちは、

「あなたは割礼を受けていない人たちのところへ行き、一緒に食事をした。」

とペテロを問いただします。

そこでペテロは、見た幻、コルネリオの招き、異邦人への聖霊降臨を最初から順序立てて説明します。

そして、

「神が私たちに与えてくださったのと同じ賜物を与えられたのなら、どうして私が神を妨げることができたでしょうか。」

と語ります。

それを聞いた人々は神をあがめ、

「それでは神は、異邦人にもいのちに至る悔い改めをお与えになったのだ。」

と認めます。

その後、ステパノの殉教によって散らされた信徒たちは各地で福音を語り続けます。

特にアンティオキアでは異邦人にも福音が語られ、多くの人が主に立ち返りました。

エルサレム教会はバルナバを派遣し、彼はサウロをタルソから連れて来て共に教えます。

そこで弟子たちは初めて、

「クリスチャン(キリスト者)」

と呼ばれるようになりました。

さらに預言者アガボが飢饉を予告し、アンティオキア教会はユダヤの兄弟姉妹たちのために援助を送ります。


背景

使徒10章は、

「異邦人も救われる」

という出来事そのものでした。

しかし11章は、

「その出来事を教会がどう受け止めたか」

を描いています。

神はすでに道を開かれました。

しかし神の民自身が、その恵みの広さを理解する必要があったのです。


ペテロへの批判

興味深いことに、エルサレム教会は最初、

「異邦人も救われたのですか」

とは尋ねません。

問題にしたのは、

「一緒に食事をしたこと」

でした。

当時のユダヤ人社会では、食卓を囲むことは交わりと受け入れの象徴でした。

つまり問題は神学だけではありません。

異邦人を本当に兄弟姉妹として受け入れることができるのか、という問題だったのです。


神が主導された出来事

ペテロは自分の判断で行動したとは説明しません。

彼は繰り返し、

  • 幻を見たこと
  • 御霊が語られたこと
  • 御使いが現れたこと
  • 聖霊が下ったこと

を語ります。

つまり、

「これは私の考えではなく、神ご自身の働きです。」

と言っているのです。

ここに重要な原則があります。

教会は神の働きに従うのであって、神を自分たちの枠の中へ閉じ込めることはできません。


「神を妨げることができるだろうか」

この章の中心となる言葉は、

「どうして私が神を妨げることができたでしょうか。」(11:17)

です。

実は使徒の働き全体を貫く重要なテーマでもあります。

  • 議会も止められない
  • 牢獄も止められない
  • 迫害も止められない
  • 民族の壁も止められない

神の働きは人間がコントロールするものではないのです。


異邦人にも与えられた悔い改め

人々はついに、

「神は異邦人にもいのちに至る悔い改めを与えられた。」

と認めます。

ここで注目すべきなのは、悔い改めさえ神の賜物として描かれていることです。

異邦人が救われたのは、民族的資格を得たからではありません。

神が恵みによって招いてくださったからです。


アンティオキア教会の誕生

後半で舞台はアンティオキアへ移ります。

アンティオキアはローマ帝国第三の都市と呼ばれる大都市でした。

ここで初めて、異邦人への本格的な福音宣教が実を結びます。

ルカはこう記します。

「主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。」(11:21)

教会成長の理由は戦略ではありません。

主が働かれたからです。


バルナバの重要な働き

エルサレム教会はバルナバを派遣します。

バルナバはその様子を見て喜びます。

彼は疑うのではなく、神の恵みを見たのです。

さらに彼はサウロを探しに行きます。

使徒9章で回心したサウロが、ここから再び登場します。

神はすでに次の段階の準備を進めておられたのです。


初めて「クリスチャン」と呼ばれる

アンティオキアで一年間教えた後、

「弟子たちは、アンティオキアで初めてクリスチャンと呼ばれるようになった。」(11:26)

とあります。

これは「キリストの人々」という意味です。

彼らは、

  • ユダヤ人集団
  • ギリシア人集団

ではなく、

キリストに属する民として認識され始めたのです。


与える教会

章の終わりでは飢饉の預言が語られます。

するとアンティオキア教会は、ユダヤの信徒たちを助けるため献金を送ります。

ここが非常に美しいところです。

以前ならユダヤ人と異邦人は互いを遠ざけていました。

しかし今は異邦人教会がユダヤ人教会を支えています。

福音は新しい共同体を生み出したのです。


神の国とのつながり

使徒1:8で語られた、

「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで」

という約束は、この章で大きく進展します。

アンティオキアは後に世界宣教の拠点となります。

つまり使徒11章は、エルサレム中心の時代から世界宣教の時代への橋渡しの章なのです。

神の国は民族を越え、文化を越え、世界へ広がっていきます。


この章が私たちに語ること

私たちも無意識のうちに、

「こういう人は受け入れやすい」

「こういう人は難しい」

という境界線を作ることがあります。

しかし神は、その境界線を越えて働かれます。

またこの章は、教会が神の働きを見た時には、自分たちの慣習よりも神の導きに従う必要があることを教えています。

そしてアンティオキア教会は、受けるだけでなく与える教会となりました。

神の国の民とは、神の恵みを受け、それを他者へ流していく共同体なのです。


この章の中心メッセージ

神は異邦人にも聖霊を与え、救いの門を開かれた。

教会はその事実を受け入れ、福音はアンティオキアからさらに世界へ広がっていく。

神の国は人間の境界線を越えて進み、キリストにある新しい共同体を生み出していく。

「どうして私が神を妨げることができたでしょうか。」(使徒11:17)

「神は異邦人にも、いのちに至る悔い改めをお与えになったのだ。」(使徒11:18)

「弟子たちは、アンティオキアで初めてクリスチャンと呼ばれるようになった。」(使徒11:26)