ルカ24:13-33 『ルカ105 心が内に燃えていたではないか』 2017/04/23 David Hawley

ルカ24:13-33
13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処(しょ)するために引き渡し、十字架につけたのです。 21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、 23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。
25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、

I. 愚かで心のにぶいものたちよ
先週、私たちはイースターを祝いました。
イースターというのは、死後3日目イエスの復活をお祝い祭りです。イエスの死の購いによって、神様が私たちを赦されました。そしてイエスの復活によっては永遠の新しい命を与えたことは先週の話でした。
今日は、復活したイエスは2人の弟子に会った出来事と、それにどのように彼らは変えたかを見ていきます。
早速話しに入ってみいきましょう。

13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。 21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。

イエスが復活した日、二人の弟子はエルサレムの近くを旅していました。男が近づいてきて、彼らと一緒に歩きます。
彼らが話すと、弟子たちが絶望に落ちたことは明確です。彼らの期待に反して、イエスは彼らの指導者によって拒絶(きょぜつ)され、死刑を宣告(せんこく)され、十字架につけられました。イスラエルが回復するという彼らの希望は破壊された。

実はその近づいてきて一緒に歩いた男は実際に復活したイエスでした。しかし、不思議なことで、彼らはイエスだと認識しません。弟子たちはおそらく何時間もイエスと話していますが、それでも彼らは彼を認識しませんでした。 どうしてでしょう? V16では、「彼らは彼の認識を妨げられた」と書いています。 それにイエスが彼らに近ついた時、「ほら!私です!元気を出せ!」と言ってもいいでしょう。でも言わなかった。ですから、イエスは認識させたくなかったようです。おかしいでしょう。
「私だ!」と言って簡単に済んだなのに、イエスは二人の弟子たちを自分のことについての会話に導いています。
この会話では、弟子たちはイエスの死をイエスに話します。そして女性たちと他の弟子たちは空の墓について何を言ったかをイエスに伝えます。

22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、 23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。
それらの報告のため弟子たちは皆困惑(こんわく)しています。イエスはそれを聞き終わるとそろそろ語りはじめます。
25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説(と)いたすべての事を信じられない者たちよ。
あなたたちは愚かで心が鈍いものよとイエスは言っています。ここで「心が鈍い」という言葉は、「心の硬い」または「信じがたい」とも訳せます。つまり、頭には問題があるだけでなく、心にも問題があると言うことです。
そしてイエスは、彼らが鈍いため理解と信じることがでかいないものを説明し始めます。
26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

イエスは「これは神の計画だと気づかないのですか?あなたがそれを知っていれば、悲しむことはないでしょう。救い主は神が計画したことを達成し、今栄光にされています。」
しかし、彼らの心はそれを見るにはあまりにも鈍いです。それで今イエスは聖書を通して導いて理解をさせます。
それにイエスについてのいくつかの箇所を紹介しておきましょう。:
1. 創世記3章15節:イブの子孫は苦しみを受けるが、悪魔を押しつぶすだろう
2. 出エジプト記12:イエスは本当の過ぎ越しの子羊であり、その血は私たちを裁きから救い、奴隷から解放し、私たちに対抗するすべての力を打ちのめします。
3. 詩編22:十字架で受けたイエスの苦しみがのこの詩篇にはっきりと描いています。
4. イザヤ書53:イエスは、私たちの罪を負う苦しみの僕であり、イエスの苦しみによって私たちは癒されます。
5. マラキ3:マラキはは預言しました。主の道を準備するものは現れます。そして神様が神殿に戻ります。これはバプテスマのヨハネとイエスはそれを成就(じょうじゅ)しました。
ですから最初の創世記から最後のマラキ書まで、旧約聖書全体がイエスのことを語ります。

II. 信じますか
これまで、弟子たちは理解できず、信じられませんでした。しかし、私たちが頭と心で信じることはとても重要です。
復活を信じよとの呼びかけは、新約聖書の主要な焦点です。復活の信仰は、キリスト教の信仰のすべての基礎です。なぜなら、キリストの復活がなかったら、イエスは主ではなく(使徒17:31)、キリスト教は役に立たないものになります(コリ15:13-19)。
この信念(しんねん)は、私たちを正し神聖化する動力です。 新約聖書の作家たちは、私たちがするべきことに取り組む前に、私たちが信じていることに常に訴(うった)えています。
ですから、もう少し信念を考えてみましょう。
弟子たちはイエスが預言したことを信じられませんでした。実際にイエスを信じていませんでした。 そして結果として、物事が悪くなったときに彼らは悲しみに落ち込んだ。
しかし、何が彼らの心のそんなに鈍いものにしたのでしょうか? その一部だとおもいますが、彼らは望んでいた何かを持っていました。 彼らが望んだのはイスラエルの復活(v21)でした。それが彼らを救うと思ったものです。彼らはそれを放棄することができませんでした。彼らはそれを手放すことを想像することもできませんでした。
今の私たちはどうですか?

私たちには、新約と旧約聖書があります。弟子12人が経験したことを伝えるために命を与えたことを知っています。神様を体験したこともあるでしょう。これで私たちは何となくイエスを信じるようになるかもしれません。
しばらく自分のことを考えましょう。復活が真実なら、神様が私を許して受け入れたことを知っています。無条件に愛されています。神様が私のための計画を持っていることも知っています。永遠の体を与えるだけでなく心もイエス様に似るものにする計画です。
でも私が本当にイエスを信じるかどうかは、どのようにしてわかることができましょうか。いくつかの自問をしてみましょう。
ちょっと不快、不愉快、かも知りません。
私たちの幸福(こうふく)は、私たちがどれほどうまくやっているのか、私たちはどのように評価されているのかによるものでしょうか?人々に印象づけるのにどれだけの努力とお金をかけていますか?
或いは普段の話し方は何を示していますか? 例えば、一週間の間、どのぐらいこういうとをするでしょう。
1. 自分を弁解、
2. 他人のゴシップ、
3. 自分の自慢話
神様が真実を知っていて私を許す或いは必要であれば私を守ることなら、いつも自分を弁解する必要はありませんね。私の欠点にもかかわらず、神様が私を受け入れるならば、他人の悪口をす必要はありません。神様は私を愛しているなら、他人に印象づける必要がありますか?
または、拍手や注目を頼りにして、善行や神への奉仕を動機づけていますか?評価されないとやる気がなくなったり、異常に動力したっりしてしまうでしょうか。
あるいは、他の人々もイエスを信じるべきだと信じていますか? 人々にイエスのことをかたりますか。あるいは、人々をおそれるため話すことを遠慮するでしょうか?

III. 信仰の導き手とその完成者
これらは難しい質問ですね。私自身はゴシップ以外全部あたりましょう。惨めな私。
自分が良い宗教熱心な人だと思うなら、それらの質問は不快感を与えます。私たちの信仰はまだまだですね。
かえて、イエス様を見上げましょう。
弟子たちが信じられなかったこと、イエスは信じました。弟子たちができなかったこと、イエスはやった。
イエスは信仰をもって十字架に行きました。一方、弟子たちは走り去った。
イエスは恐ろしいことで訴えられ、恐ろしい苦しみと死を脅(おびや)かされた。 しかし、イエスは屠殺(ところ)子羊のように沈黙しました。神様自分を立証(りっしょう)下さると信じて神様に委ねました。 一方、自分を救うためにペテロは口から呪いを誓ってイエスを否定しました。
イエスは十字架に導かれたにもかかわらず、知るべきことを人々に語りました。 一方、ペテロは自分の信仰を隠した。
私たちはその弟子のような状態しばしばです。私たちは何をすべきかということ何となくわかっていても、それを行う力はありません。そして、私たちは神様が何ができるのか、何を望んでいるか信じがたいです。
しかしそれで話が終わりではないです。これらの二人の弟子たちに何が起こったかを見ていきましょう。

28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮(ゆうぐれ)になっており、日もはや傾(かたむ)いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。 30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福(しゅくふく)してさき、彼らに渡しておられるうちに、 31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説(と)き明(めい)してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
イエスは目にて ではなく聖書を通して自分自身を弟子たちに示しました。そして彼らの心が燃えてきた。 彼らはもっと聞きたかったので、イエスに一緒に泊まるように招待したのです。
そしてイエスはパンを裂いて祈ります。彼らの目は開かれ、彼らはイエスを認識します。そして、自分の心の状態が悟ります。「お互の心が内に燃えたではないか」?心が冷たくて鈍かったことを実感しましたが、今は心が燃えています。
それから、彼らは何をしたでしょう?
33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、
時間が遅すぎて道を歩くことは危険でしょう。それにもかかわらず、彼らは立ち上がって、他の弟子にイエスが現れたことを伝えに走ります。
彼らはまだすべてを知らない。しかし、自分に燃えている心の中でこれを知っています:「それは本当です! イエスは復活した!」
イエスの本当の姿をみると我々はどう変わるかをパウロが語ります:

第2コリント3:13-18 13 そしてモーセが、消え去っていくもの の最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔に おおいをかけたようなことはしない。 14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読(ろうどく)する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取(と)り除(のぞ)かれるのである。 15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。 16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。 17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

イエスは彼らが思っていたように単なる「わざにも言葉にも力ある預言者」ではありません。イエスは栄光の主であり、すべての聖書の主題と主人公です。
イエス様では、神様の意図的、決定的、忍耐強い、犠牲的な愛が見えます。
敵対的な反対のもとでイエスの完全な信仰、完全な服従(ふくじゅう)、そして勇気が見えます。
怒りを示すことなく、苦しんでいるにもかかわらず、イエスの謙虚な忍耐が見えます。
イエスの神様への献身も見えます。
イエス様がどれほど麗しい、強いお方!我らの心は愛で満たされ、イエスに向かってちかつきます。 イエスの栄光を語って、聖霊は私たちにその栄光を反映させます。 すべての愛すもののように、我らは少しずつと愛する人のイメージに変身します。
メッセッジの前半で疑問がありましたね。何でイエスは自分だと隠したということでした。「ほら、私だ!」を言っていいじゃないかと思いましたね。
もうお分かりでしょうか。
イエスは、弟子たちが肉体で彼を見ることだけではないことを願っていました。彼らにイエスの本当の姿を知ってもらいたかったですよね。彼らの心から盲目と鈍さのを取り除きたかったです。。
イエスの本当の姿をみると心が燃え、人生が変えられるからです。

IV. 実用
イエスの栄光を心から理解すると私たちも栄光へ変えられます。
でも自分の心はそのことをいつの間にか忘れてしまって鈍くなります。神様がそれをわかっています、聖書ではよく「神の業を思い出しなさい」と言ってくれます。
だから世界や状況ではなく、常にイエスに目を向ける必要があります。私たちはイエスを見ると、イエスが力と安定感を与えます。
私たちがイエスに見つめると、他のものは私たちを支配する力を失います。

イエスの素晴らしい麗しさと強さを見つめて、イエスの栄光の力で、イエスに似るものに変えられていきましょう。
イエス様に目を向けましょう。

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