ルカ2:8-20 『 喜びの訪れ④~救い主が産まれた 』 2012/12/16 松田健太郎牧師

ルカ2:8~20
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

クリスマスがいよいよ近づいてきました。
世の子供たちも、今のこの時をドキドキわくわく。
世のお父さんお母さんは、ちょっとため息。
多くの教会でもクリスマスを祝い、にぎわって来ているのを感じます。

およそ2000年前に人類初めてのクリスマスを迎えた人々も、待ちに待った救い主をお迎えするに当たって、みんなそわそわしてこの喜びのときを迎えたのでしょうか?
いいえ、少なくともほとんどの人たちにとっては、イエス様が誕生した日は、いつもと何も変わることのない、平凡な一日だった事でしょう。
イスラエルの誰もが待ち望んでいた救い主の誕生は、ほとんど誰にも知られることなく、ひっそりと訪れたのです。

“救い主が誕生した”という嬉しい知らせを、もっとも早く知らされたのは誰だったでしょう。
それは、どんな偉い祭司でもなく、王でもなく、学者たちでさえない。
みすぼらしい羊飼いたちにその栄光が与えられました。
今日は、羊飼いたちが迎えたクリスマスを通して、そこに示される救い主の姿に迫って行きたいと思います。

① 羊飼いに示された知らせ
みなさん、救い主の誕生を真っ先に知らされたのが羊飼いたちだったというのは、どうしてだと思いますか?
聖書には羊飼いが沢山でてくるし、イエス様は“良き羊飼い”と呼ばれているし、とてもうやまわれていたという事でしょうか?
いえ、実はその逆なのです。
羊飼いたちは当時、汚れた人々として多くのユダヤ人たちから疎まれる人々でした。

羊飼いたちは、羊の群れに豊富な草を食べさせるために、何日も野宿するような長い旅に出る事が珍しくはありません。
しかしそうすると、神殿の儀式に参加できない。
安息日にも、羊の世話をしなければなりません。
週毎の礼拝に参加する事ができない羊飼いたちは、汚れた人々として蔑まれていたのです。
さらに身なりも汚らしい羊飼いたちはユダヤ教から破門され、みんなから嫌われ、軽蔑され、人としてすら扱われていないような人たちでした。
そういう意味で、羊飼い達は宗教的には落ちこぼれた人たちだったのです。

この時代、聖書を熱心に研究し、暗証し、そこに書かれていることを守る事によって信仰深さを示そうとする熱心な人たちはたくさんいました。
神様はそういう信仰熱心な人たちを選ぶのではないかと思いますが、そうではありません。
人々から尊敬され、時には恐れられているような宗教者ではなく、ユダヤ人たちから見捨てられてしまったような羊飼いたちに、救い主の誕生が最初に知らされました。
それは、救い主がエリートのためだけに存在するのではない事。
そして貧しい人、疎外されている人、差別を受けて苦しんでいる人たちを決して見捨てることのない、全ての人にとっての救い主であるという事を表しているのです。

② 死ぬために産まれた
御使いが羊飼いたちに教えた、救い主を見つけるための“しるし”というものがあります。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

この“しるし”という言葉は、聖書の他の箇所では奇跡を表す言葉としても登場します。
でも、この場合は必ずしも何か奇跡的な出来事を示しているのではありません。
羊飼い達がそれを見た時に、その赤子こそが救い主だという事がわかるための“しるし”です。
そして御使いはそこに、ふたつのしるしを示しました。
ひとつは、布にくるまれているという事。
もうひとつは、飼い葉おけに寝かされているという事です。

飼い葉おけに関しては、先週お話しましたね。
この当時、この地方の飼い葉おけは、岩を削ったものでした。
赤ちゃんがそんな所に寝かされているなんていう状況は、そうそうないでしょう。
だから、これは目印、しるしとなり得ることです。

もうひとつのしるしは、布にくるまれているという事です。
でも、赤ちゃんが布にくるまれている事は、何も珍しい事ではありませんね。
赤ちゃんと言えば、大体布にくるまれているようなイメージがあります。
では、御使いはどうしてわざわざこれを“しるし”として羊飼い達に告げたのでしょうか。
これは聖書の中で明らかにされている事ではないので、半ば推測にしか過ぎないところですが、実はその中に大きな真実が示されていると僕は思うのです。

さて、イエス様が産まれたのは、家畜小屋です。
これも先週お話ししましたが、この当時、家畜小屋と言えばその多くはほら穴を利用したものでした。
ところで、ヨセフとマリヤは準備もままならない状態でイエス様を出産してしまいましたから、赤ちゃんをくるむための、衛生的できれいな布なんてまったく用意していなかったんじゃないでしょうか。

「赤ん坊が産まれた! どうしよう。何かくるむもの、布はないか?」
彼らがそうやって慌てて布を探したとしたら、実はこの当時ほら穴で見つけることができる布がありました。
それは、埋葬用の布です。
現代の私達には、知識がなければ検討もつかない事ですが、当時のユダヤ人なら誰にでも簡単に連想できたことした。
当時、人々は死体を包む埋葬用の布を、ほら穴の中に保管する事がよくあったんです。
近くのほら穴を探せばすぐに見つける事ができたでしょう。
ヨセフとマリヤは、この埋葬用の布を見つけて、産まれたばかりの赤ちゃんをその布で包んだのではないかと思うのです。

羊飼い達が、ほら穴のような家畜小屋の中で赤ちゃんを見つけたとき、御使いたちが言っていた事の意味がわかった事でしょう。
赤ちゃんが、埋葬用の布に包まれ、岩作りの飼い葉おけに寝かされている。
貧しい当時の時代であっても、こんな状況は滅多に起らない事でした。
ましてや、これが私達の王であるとは、にわかには信じられない。
しかし羊飼い達はそれを見た時、これこそ御使いが知らせたみどり子に違いないという事がわかったのです。

埋葬用の布にくるまれた幼子イエス様。
ヨセフとマリヤにしてみれば、ただ布の持ち合わせがなかったから仕方のない事なのであって、できればこんな布には包みたくなかったでしょう。
しかしそれは、私たちの心には、とても象徴的な意味をもって響きます。
イエス様は、私達の罪を贖うために、言ってみれば死ぬために産まれてきたのですから。
生きるためではなく、死ぬために産まれてきた唯一の子。
私達の王は、温かくて衛生的な、心地よい王宮に産まれたのではなく、この様にしてもっとも貧しく、厳しい状態の中で、私達のために産まれてくださったのです。

③ 目立たない所にある祝福
私たちが絵画や映画の中で見る幼子イエスは、薄らと明りに包まれていて、後光が差していたりします。
でも、実際には光ってもいなければ、後光も差してはいませんでした。
もしそうであれば、光って後光が差している事が救い主のしるしとなったでしょう。
むしろその方が、救い主としてわかりやすいですよね。

臭くて汚い家畜小屋で、埋葬用の布に包まれて、飼い葉おけに寝かされた何の変哲もない普通の赤ん坊。
それが、私達に与えられた救い主だと言うのです。

世の中で祝われるクリスマスは派手で、キラキラしていて、華やかです。
イエス様が産まれてきた実際の状況とは、対照的ですね。
同じように、私達は神様の働きと言うと何か派手で、きらびやかなものばかりを求めてしまうかもしれません。
でも、神様の御業というのは案外平凡な、普通の事と見分けがつかないような物の中にあったりするものです。

本当に大切なものは、人知れずこの世に訪れて、誰もそれに気が付きませんでした。
けれど、それは多くの人々に本当の喜びを与える事になったのです。
私達の目を引くのは、きらびやかで豪華なものかもしれません。
でも、世の中で祝われているクリスマスは、むしろ欲望にまみれていて中身がありません。

イエス様が産まれた時、天井で起った喜びは、地上でのクリスマスなんて比べ物にならないくらい盛大で美しいものでした。

2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

私達は、表面的には賑やかできれいな、この世の美しさを求めるのではなく、地上にいる間は目立たず、みすぼらしいかもしれないけれど、やがて私たちが目にする事になる本当の美しさを待ち望んで、求めていきませんか。
みなさんのクリスマスが、そのような神様からの喜びにあふれた時となりますように。

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