マタイ5:9 『平和をつくる者は幸いです』 2007/02/25 松田健太郎牧師

マタイ 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

世界平和を望まないと言う人は、ほとんどいないだろうと思います。
世界から争いがなくなり、みんなが仲良く暮らしていく事ができるとしたら、世界は何と幸せになるでしょう。

私達は日本人として、どうして外国の人たちは、戦争を止める事ができないのだろうと言います。
特に、僕達のように戦争を経験していな世代の人間は、戦争というものがどうも現実味のない遠くの出来事に思えてしまいます。
場合によっては、争いを続ける他の国の人々が野蛮で、愚かに見えてしまうくらいです。
でも、私達がよく考えてみれば、争いというものはもっと身近なもので、私たちにとって関係のないものではないという事がわかってくるはずです。

争いは、職場にも、学校にも、隣近所の間柄にも、そして家庭内にもあふれています。
私達は生活の中で、お互いの心を傷つけ、踏みにじり、立ち直れないほどに痛めつけてしまうこともあります。
外国の戦争を非難する人が、実は生きていく上では加害者として、人々を傷つけ殺しているということが十分にありうるのです。

イエス様はこの様に言いました。

マタイ 5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

国家間で争われる戦争も、もっとも身近な争いも、同じ罪が根っこになっています。
実際に手を下したかどうかは関係なく、私達の中にある憎しみの気持ちや敵意は、言葉や態度を通して相手に伝わり、人々の心を傷つけ、殺している。

日本では年間、1500人近くの人が殺人事件で死んでいます。
前にも言いましたが、日本の年間自殺者数は3万人を超えています。
日本はまったく、平和な国などではありません。
それどころか、イラク戦争に匹敵するような、恐ろしい戦火の真っ只中に、私達は置かれているのです。

今日の箇所は、山上の説教の中でも“8つの幸い”シリーズの7番目になります。
シリーズのクライマックスを目前にして、私達が平和をつくる者となっていくことができるように、御言葉を通して学びながら、神様の恵みを共に受け取っていきたいと思います。

① 愛が平和をもたらす
ヴィクトル・ユーゴというフランスの作家が書いた本で、『ああ無情』または、『レ・ミゼラブル』という有名な小説があります。
主人公のジャン・ヴァルジャンは、貧困のためにパンを盗んで捕まり、牢獄に入れられますが、脱獄を繰り返し19年間も囚人として生きる事になります。
長い監獄生活の末に、ヴァルジャンは人間社会に対する憎悪の塊となっていました。

彼は出獄後、教会に入って銀の蜀台を盗みました。
そこに警官達が駆けつけ、あわや現行犯逮捕というところで、その教会の司祭が現れ、警官達に言いました。
「その蜀台は、盗まれたのではありません。その方に差し上げたのです。」

このミリアル司教との出会いによって、ジャン・ヴァルジャンの心は砕かれました。
彼は苦悩の末に、善良な人間として新たな人生をスタートするのです。

憎しみと恨みにまみれていたジャン・ヴァルジャンを変えたのは、ミリアル司教の愛でした。
これは小説の中での話しですが、現実にも愛によって変えられた人々がたくさんいます。

元やくざの人、元テロリスト、娼婦やドラッグの中毒者、多くの人々が愛によって変えられ、新しい人生を歩んでいます。

小西さんから先日お借りした本には、ニューヨークのブルックリン、ブッシュウィックという、アメリカのカルカッタとも称される町で、放っておけばギャングや強盗になってしまうだろう子供たちを集めて教会学校を開いた人について書かれています。
ビル・ウィルソンというこの人の愛によって、どれほど多くの子供たちが絶望的な生活と未来から救われた事でしょうか。

法律やルール、権威や強制によっては絶望しか得る事ができなかった人々が、愛によって生まれ変わっていきます。
愛される時、人は生きるための力を得ます。
まず豊かな愛を受けることによって、自分を豊かに愛する事ができ、豊かな愛で隣人を愛する事ができるようになるのです。

② 神様との和解
しかし、残念ながらそこにも限界があります。
その愛を表現するのも、罪をもった人間だからです。

実は、僕が知っている多くの人たちがその部分で傷つき、苦しんでいます。
本当は両親から得なければならなかった愛を、両親の不完全さゆえに十分に受けることができなかったという人がたくさんいるのです。

それは他人事ではありませんね。
私達の誰が、完全な親であり、完全な愛を表現できると言い切れるでしょうか。
私達人間の愛には限界があります。
だから、私達はまず、神様の愛を受け取る必要があるのです。
神様の愛には限界がないからです。

生まれたままの私達は、神様と敵対状態にあります。
それは、私達が神様の存在を無視し、自分自身を自分の神とし、創造主である本当の神様を自分の外側に追いやっているからです。
神様に仕える存在であるはずの私達は、むしろ神様を、私達の都合の良いように使おうとします。
自分の希望を一方的に願い、それを叶えないのであれば役に立たない神と決め付ける。
私達は生まれながらにして自己中心的で、その様な形で神様に敵対しているのです。

それなのに、一方的に敵対している私たちに対し、神様の側から和解のための手段を私達のために送ってくださったのです。
聖書にはこの様に書かれています。

コロサイ 1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

イエス・キリストの十字架によって、私達は神様との間に平和を持つ事ができるようになりました。
十字架がどの様にして神様との和解になるのかはともかくとして、神様がどれほど私たちを愛して下さっているのか、それによって私たちに知らせてくださったわけです。
それを事実として、私達が神様の愛を受け取るということが信仰ですね。

私達は、神様の完全な愛に触れ、愛を受け取り続けることによって心が安らかにされていきます。
神様との平和によって、私達の心の中にも平和が、平安が与えられるのです。

③ 平和をつくる
短い時間で、この素晴らしい幸いを語りつくす事などできないのですが、そろそろ話をまとめていかなければなりません。
神様との平和を受け取った私達は、イエス様の言う、“平和をつくること”を考えていかなければなりません。

普段の生活の中で私達が平和を保とうとするとき、真っ先にしてしまうのは妥協です。
自分ががまんする。
耐え忍ぶ。
とにかく敵を作らないようにする。
しかし、それがイエス様の言う平和ではありません。
イエス様は別の場所でこのようにも言っています。

マタイ 10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

私達は、時には立ち上がり、戦わなければならないときがあります。
神様との平和を保つため、本当の愛と真理を守るため、妥協してはならないときがあります。
その時には、私達は御言葉の剣を手にし、誘惑や安逸に立ち向かわなければなりません。
主の平和とは、心の奥底の平安から来るものであって、表面的なこの世の平穏無事を表してはいないのです。

イエス様の言う“平和をつくる”ということは、争いがないという消極的な事を表しているのではなく、人の間に、積極的に平和をもたらす事です。
そして、先ほども言ったように、人に平和をもたらすのは愛の働きなのです。

みなさん、私達は愛されています。
その事を信じますか?
私たちと神様との間にある平和は、ただ単にもう争いがないというだけのことではありません。
神様が私たちを抱きしめ、ニッコリ笑い、「大好きだよ。」と微笑んでくれる。
そう考えた時、私達の中にも人を愛したいという想いがこみ上げてはこないでしょうか。
私達の罪が神様に赦されたように、今度は私達が人々を赦す。
私達が神様の愛をいっぱい注がれたように、今度は私達が人々に愛を分かち合う。
神様から与えられた平和を、私達が人々に伝える時、私達は平和をつくる者となるのです。

「平和をつくり出す人は、神の子どもと呼ばれるだろう。」
ここで言われているのは、十字架の救いを受けて神様の養子として迎え入れられたというのとは別の事です。
私達が、神様の命、性質、人格を、そのまま遺伝的にいただいて生まれてきたように、“神の子ども”として認められるだろうとイエス様は言うのです。

人々が、私たちを通して神様との和解を知る
人々が、私たちを通して神様の愛を見る。
それこそ、2000年前にイエス様が私達のためにしてくださった事にほかなりません。

イエス様が見えない神の形となられたように、今度は私達が、天に昇られたイエス様に代わって、神様の愛を人々に伝えなければならない。
でもそれは、私たちにできることではありません。
私達の内側に与えられている聖霊の助けによって、そして私たちに与えられているあふれんばかりの神様の愛によって、初めてそれが可能となるのです。

そのために、みなさんが神様の愛を積極的に、いっぱい受け取ることができますように。
私達が、やがて平和をつくる者として、キリストの身丈にまで成長する事ができますように、心からお祈りします。

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