ヨハネ15:1-8 『主につながる』 2005/10/16 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書15:1~8
① まことのぶどうの木
聖書の中には、イスラエルをぶどうの木に例えて話している箇所がたくさんあります。今日の箇所はぶどうの話なので、旧約聖書ではどのように描かれているのかということを見てみたいのですが、全部見ていると時間がないので、代表的なものをひとつ見てみましょう。
エレミヤ書の2章21節では、このように描かれています。

エレ 2:21 わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。

他の箇所は見ませんが、内容的には同じような事を言っています。
神様は何が言いたいのか。
神様は人類を創造し、イスラエルという民族を神の祭司として選び、イスラエルというぶどうの木が豊かに甘い実を結ぶ事を期待していました。
しかし、実際にはイスラエルから生まれたのは、不信仰、不従順、偶像崇拝という質の悪い実ばかりでした。
ヨハネによる福音書15章の1節で、イエス様はこのように言っています。

15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

これまでイスラエル人たちは、血統ゆえに自分は神というぶどうの木につながる枝だと信じてきました。しかし、まことのぶどうの木はイスラエルという民族ではない。民族としてイスラエルが生んだ実は、堕落の実でしかなかった。
イエス様こそがまことのぶどうの木です。
血筋が人を救うことはできない。わたしたちクリスチャンも、両親がクリスチャンであるからといって子供がそのまま救われるということはありません。
わたしたちひとりひとりが、イエス様と親しい生きた交わりを持ち、主を信じるということによってのみ私達は救われるのです。
それでは、まことのぶどうの木であるイエス様につながるということがどういうことなのかを、共に考えていきたいと思います。

② 刈り込み
私たちがイエス様というぶどうの木につながると、成長し、やがて実を結びます。
実とはいったい何でしょうか?
実とは、イエス様との親しい交わりの中に入り、神様との関係を結ぶ事ができた結果、形、行動として現れてくるもののことです。クリスチャンとしての働きということができるかもしれません。
パウロは、ガラテヤの人々に宛てた手紙の中で、御霊の実として次のものを挙げています。

ガラテヤ 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

皆さんの中に、この様な実が結ばれているでしょうか?
皆さんの人格に、愛や喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のようなものが育まれているでしょうか? 隣の方ではなく、ご自分の事を考えて見てください。
実は、世界中の教会で、御霊の実を結んでいるクリスチャンはあまりにも少ないと言われています。
クリスチャンになったときに、新しくされたはずなのに、救われているはずなのに、現実はクリスチャンといっても他の人たちと何の変わりもないように見えます。
そこに疑問を持っていただいて、次の箇所に行きたいと思います。

ヨハ 15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

私達は信仰を持った時に、イエス様というぶどうの木につながり、実を結ぶことができるようになりました。
わたしたちはすでに清くされている、というのが3節に書かれていることです。
しかし、今現在私たちが実らせている御霊の実だけではなく、もっと多くの実を実らせる事を、私達は期待されているのです。
期待されているのは、私たちにそれが可能だからです。

こういう話は小西さんが得意でしょうが、果実などの栽培の時に、それぞれの枝が養分をしっかり吸うことができるように、余分な枝を切り取ってしまうことがあります。
これを剪定というそうです。
私たちの中で主の実がならない部分を、神様は剪定するのだというのです。
神様の剪定を受けるのは辛い経験です。
取り除かれなければならないものに限って、私たちが執着を持っていたりするからです。

うちの娘はまだ1歳ですから、何でも口に入れてしまいます。
時にはどこから見つけてくるのか、先のとがった危険なものを口に入れようとする時には、その前に取り上げてしまいます。
そうすると娘は、この世の終わりでもあるかのように大声を上げて泣きます。
でもそれを見ているのが可愛そうだからと言って、危険なものを持たせるようなことはしません。
それと同じように、神様は私たちにとって害になるようなものを、取り上げられる時があります。私たちにとって害になるものとは、罪となる行いかもしれません。
あるいはその痛みを通して、私達は自我というものを捨てて、神様に委ねるということを学ばされるかもしれません。
しかし、どのような事であっても、神様は私たちにいじわるをしたり、罰を与えるために痛みを与えたり、辛い経験をさせるわけではないということを覚えておかなければなりません。
パウロでさえ、神様に多くのものを取り除かれ、剪定されました。いや、パウロのようなものだからこそ、多くの試練を受け、神様に整えられ、主に用いられる器となったわけです。
苦難や試練を通して私たちが成長する時、私達は愛や、喜びや、平安というものを本当に知ることができるのです。

③ 実をむすぶ
神様は、私たちが信仰と御霊の実を豊かに実らせる事を望んでおられるという話をしました。
枝である私たちが実を結ぶためには、木としっかりつながっている必要があります。
イエス様はこのように言っています。

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

枝が木につながっているのは自然な事です。枝が努力をして、木にしがみついているわけではありません。
しかし、枝が切り離されたり、折れたときには、その枝が実を結ぶ事はもうできません。
木としっかりつながっている枝は、命を保つために必要な栄養分や水分を、木の幹から吸収します。
それと同じように私達は、神様とのつながりが強ければ強いほど、より多くの生命力に満ち溢れ、多くの実を結んでいくのです。

クリスチャンの中で、元気のない人があまりに多いのは、枝だけで実をみのらせようとしているからではないでしょうか?
私たちがクリスチャンである限りは、実を結ばなければなりません。これは確かな事なのです。しかし、実を結ばせなければということばかりを考えすぎた結果、私達が何をしてしまうかというと、枝の力だけで一生懸命実を結ばせようとしてしまうのです。
枝だけの力でどれだけがんばって見ても、その力はたかが知れています。
人間の力に限界があるのは、誰の目から見ても明らかです。
ではどうすればいいのか。イエス様はこの様に続けています。

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

私達は、まずイエス様の中にとどまる必要があるのです。
これは本当なら、それほど難しいものではありません。
私たちがイエス様への信仰を持っているなら、誰でもすでにイエス様とのつながりを持っているからです。
なのに多くのクリスチャンには実るべきものが実らない。
それは、私たちが生きるこの社会が、私たちをイエス様に留まる事を遮っているからです。
私達は生きていくために仕事をしなければならない。会議や残業で夜遅くまで残らなければならない。炊事洗濯掃除をしなければならない。子育てをしなければならない。子供の習い事や贈り迎えをしなければならない。町内会やご近所との付き合いでどこかへ行かなければならない。
私たちの生活は忙しすぎるのです。
イエス様に留まるのは難しいことではありません。
本来であれば、イエス様を知ったときに誰もが、自然にしたいと思う事です。
それは、イエス様とより多くの時間を過ごすということ。
何度でも言いますが、御言葉を通して語られる主の声に耳を澄ますということと、祈りの中で心のうちをイエス様にお話しすることです。

15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

イエス様としっかり結びついて水分と養分をしっかり吸収しなければ、私達は霊的に枯欠して、死んでいってしまいます。
そうしたら普段の生活だって、また味気のない、生きるための仕事、仕事のための仕事、しなければならないからするだけの人生、つまらないものになっていってしまいますよ。

一方で、私たちが主にとどまるなら、私達は神様からのエネルギーを直に受けることができるようになるのです。
それだけではなく、イエス様はこのようにも約束されています。

15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

わたしたちが主にとどまり、御言葉が私たちにとどまるなら、とイエス様は言いました。御言葉が私たちに留まるという感覚を、皆さんお分かりになるでしょうか?
私たちが祈っている時、不安な時、心配な事があるとき、ふと御言葉が頭をよぎるという経験はないでしょうか? それが御言葉が私たちに留まっているということです。
それこそ、まさに主の御声です。それを聞く時、私達は全てに安心して、身を委ねる平安の中に入ることができます。あるいはやる気が内側から沸いてくるのです。
だから、私たちが常に御言葉に触れていない限りは、御言葉が私たちに留まる事はありません。聖書を繰り返し読んでくださいと繰り返し言う理由をわかっていただけましたでしょうか?

さて、私たちが本当に主の内に留まる時、願うものがどんどん叶えられていくという体験を、私達はします。それは、私たちの想いが主の御心に近いからです。
私たちが神様と同じ想いになっていくから、私達は神様の御心を望んでいくようになるのです。
そのような素晴らしい経験をするのですから、私たちの内にはますます喜びが湧き出てくるのです。
私たちが実を結ぶというのは、そのような素晴らしい体験と、喜びの中から生まれてくることなのです。皆さんが自分の努力によって実を実らせようとしているなら、その努力を休んで、主にとどまる努力をして見てください。
あるいは、皆さんが何の実も結ぶ事ができていないと思えるようなら、まず主に戻って、喜びで満たされる経験をして下さい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です