ルカ13:1-9 『 たとえ話6~もう一年待ってください 』 2010/06/20 松田健太郎牧師

ルカ13:1~9
13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

今、世界中がワールドカップの話題で燃えていますが、皆さんはどのチームが優勝すると思いますか?
日ごろの行いが良い人たちが一番多く集まったチームでしょうか?
クリスチャンのプレイヤーが一番多くいるチームが勝つでしょうか?
それとも、チームのために祈っている人が一番多い国のチームが優勝するでしょうか?
そんなものは、何の関係もありませんね。
スポーツの勝敗に、日ごろの行いや信仰は関係がありません。

では、信仰の篤いクリスチャンと、日ごろの素行が悪いノンクリスチャンのどちらかが病気にかかるとしたら、どちらがかかると思いますか?
あるいは、同じ病気にかかって、良い人と悪い人で先に亡くなるのはどちらでしょう?
良い人は病気にかからないという事はありません。
場合によっては、良い人ほど早く死ぬように思える時さえあります。

こうして改めて考えると、とてもばかばかしい事ですが、実はいつの間にか、わたし達自身もこのように考えている事があります。
「クリスチャンなのに病気になるなんてみっともない。」
「クリスチャンの家庭なのに流産だなんて証にならない。」
そのように考えて、自分が抱えている問題を誰にも言う事が出来ず、人知れず苦しんでいる人たちもいるのです。
それは、因果応報的な価値観に捕まってしまっているのです。
因果応報的な考え方は、何も仏教だけの話ではないのです。

良い事をすれば良い事が起り、悪い事をすると悪い事が起る。
何事もない内は因果応報も良いような気がするのですが、問題が起った時、それはわたし達を突き刺すトゲとなるのです。
そのトゲは、自分ばかりでなく他の人にも向けられます。
「あんな悲劇が起こるなんて、あの人は、一体何をしでかしたのだろう?」という詮索。
あるいは、何か悪い事をしでかしたに違いないという決めつけ。
それは、決して人を幸せにしません。
イエス様は、このような価値観や考え方に真っ向から反対したのです。

① 悔い改めなさい
ピラトの兵隊たちが、礼拝のために神殿に来ていたガリラヤ人達を襲い、殺すという事件が起こりました。
そして、神様に捧げるために持ってきた犠牲の血に、彼ら自身の血を混ぜられて穢されてしまったというのです。

このガリラヤ人達は神殿に礼拝を捧げるためにやってきたはずなのです。
全知全能の神がおられるそのような場所で、これから礼拝を捧げようとしていたガリラヤ人たちはどうしてこんな酷い目に遭ってしまったのか?
そこで先ほどの価値観が頭をもたげたのです。
「これは、彼らがよほど悪い罪を犯していたからに違いない。」そんな噂が飛び交い始めたのです。

その報告を聞いたイエス様は、彼らにこのように答えました。

13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

続いて、イエス様は最近起こった別の事故も取り上げて話しました。

13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

イエス様は言うのです。
「彼らは、あなた達に比べて罪深いからあんな悲劇を経験したと言うのか。
あなたも同じ罪びとではないか。
もしそれが事実なら、あなた達自身も彼らと同じ死にざまを迎える事になるだろう。
そのような考え方は、止めなさい。悔い改めなさい。
神は人々の罪を決して許さず、人々を裁くために手ぐすねを引いて待っているようにあなた方は考えているのではないか?
あなた達は、天の父を思い違いしている。
わたしの父は、決してそのような方ではない。
あなたたちはパリサイ派の人々や律法学者の言葉に耳を傾けて、神の裁きを恐れ、互いを裁き合っているのだ。
そのような考えは、変えなければならない。」
このような話の流れから、今日のたとえ話はされました。
つまり、神様に対する間違ったイメージを取り去って、考え方を変えなさいというのが、このたとえ話のテーマなのです。

② いちじくの木のたとえ話

13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

『ぶどう園にいちじくの木を植えておいた 』という言葉がもうおかしいと反応してしまうかもしれませんが、これは別に珍しい事ではありません。
ぶどうの栽培だけでは収入が足りないので、いちじくも栽培してみたのです。
いちじくというのは、植えた次の年には実を結び、収穫することができるのだそうです。
桃やクリや柿ではそうもいきません。
しかし、いちじくはそれほど時間を掛けずに実を収穫することができるので、手っ取り早く収入を増やすにはもってこいなのです。
ところが、2年経っても3年経っても、このいちじくは実らない。
これは、この木に何か問題があるのです。
そうすると、そんな木は切り倒して、別のものを植え直すのです。
どうせ新しいいちじくの木を植えれば、次の年には実がなるのですから。
これが常識であり、経済感覚であり、この世のあり方なのです。

ところが、ここにイエス様の“ありえない話”が出てきます。

13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

ぶどう園の管理を任されている番人が言ったのです。
「どうか、もう一年待って下さい。ことし一年、そのままにしてやって下さい。もっと手入れをして、肥やしをやってみますから・・・。」
「それで来年実を結べば、それでいいじゃないですか。それでもダメなら・・・、切り倒して下さい。」
“仕方がないので、切り倒すことにします。”というのが、普通この番人が答えるべき回答の仕方です。
しかしそうではないのです。
「(あなたが)切り倒して下さい。」もし言語そのままの言葉を直訳すれば、“あなたが切り倒せ!”という強い命令形となります。
これは、もう番人が主人に対する口のきき方ではありません。
「わたしは嫌だ。切り倒す事なんてとてもできない。もしどうしてもというなら、あなたが自分で手を下しなさい。」
もう、主人を敵に回しても構わないとでも言うような、執着と言えるまでのいちじくの木への愛が、ここには描かれています。

一本のいちじくの木に対して、自分のクビをかけるような、あるいは命を賭けるような、こんな事を言う人はいません。
ありえない話です。
しかし、わたし達の天のお父様は、このような思いでわたし達を愛し、見て下さっているのです。

神様が本当にいるなら、「神なんてバカバカしい。そんなもの信じられるか。」なんて冒涜するような人間が、その場で雷に打たれて死んでしまわないのはなぜか。
神様が本当にいるなら、この世の悪をどうして見過ごしているのか?
神様は、時が来るまで手を出さないで待っています。

わたし達もまたクリスチャンになってから何年経っても、実際には何も変わらない。
相変わらず愛がなく、寛容さに欠け、自分勝手で傲慢なわたし達。
そんなわたし達もまた、実を結ばないいちじくです。
しかし、実を結ばないわたし達を、それでも主はあきらめません。
もう一年、あと一年と忍耐して下さるのが、わたし達の神様なのです。

IIペテロ 3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

③ わたし達の使命は
ハリケーン・カトリーナがルイジアナ州ニューオリンズを直撃して大きなダメージを与えた時、時の大統領が「罪深いあの町に神の裁きが下ったのだ。」という発言をして話題になった事がありました。
ハイチで大地震があった時にも、有名なテレビ伝道者が、「あの国は悪魔と取引をしたので、神が裁きを下したのだ。」と発言したことがありました。

それぞれの場所に問題があったのは確かです。
でも、それが神の裁きだと言ったところで、何になるのでしょう?
クリスチャンの中には、自分もそのうち打たれるかもしれないという恐怖に委縮し、ノンクリスチャンはますます頑なになるだけです。
そんなものが、正しい意味で“神を畏れる”事であるはずがありません。
わたし達は神様の偉大さや厳しさを見ながらも、そこにある大きな愛に触れる時、心から畏れをもって主に従おうと思うものなのではないでしょうか。

罪にはトゲがありますから、罪の結果を刈り取らなければならないという事はあります。
しかし、それを神の裁きと混同してはいけません。

裁きの時は、やがて来ます。
ノアに箱舟を作れと主が命じてから、120年の猶予の後洪水が起こったように。
アブラハムにカナンの地が与えられると約束されてから、400年の猶予の後で聖絶されなければならなかったように。
終わりの時が、いつかは必ず来る。
でも、今はまだその時ではありません。

「生まれつき目が見えないこの人は、自分の罪によってこうなったのですか、それとも両親の罪によってですか? 」と聞いた弟子たちに、イエス様が答えた言葉を覚えていますか。

ヨハネ 9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

ニューオリンズやハイチには、たくさんの人々が援助に向かい、彼らを慰め、助けました。
多くの人たちが神様の愛と隣人愛を経験しました。
そしてその働きを通して、たくさんの人たちが神様に立ち返ったのです。

わたし達に必要なのは、罪の詮索や「それ見たことか。」と彼らを貶める事ではありません。
悲劇によって傷つき、苦しんでいる人たちが神の愛を知り、慰められるように助け、神の癒しを祈る事です。
絶望の中にある人々の心に神様の光が指し、その人たちの内に喜びをもって神をたたえる心が起るように導くことこそ、わたし達に与えられた使命なのではないでしょうか。

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