ダニエル5:1-9 『 ダニエル5 バビロン帝国の最後 』 2014/06/08 松田健太郎牧師

ダニエル5:1~9
5:1 ベルシャツァル王は、千人の貴人たちのために大宴会を催し、その千人の前でぶどう酒を飲んでいた。
5:2 ベルシャツァルは、ぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た金、銀の器を持って来るように命じた。王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちがその器で飲むためであった。
5:3 そこで、エルサレムの神の宮の本堂から取って来た金の器が運ばれて来たので、王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちはその器で飲んだ。
5:4 彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。
5:5 すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、
5:6 王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。
5:7 王は、大声で叫び、呪文師、カルデヤ人、星占いたちを連れて来させた。王はバビロンの知者たちに言った。「この文字を読み、その解き明かしを示す者にはだれでも、紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけ、この国の第三の権力を持たせよう。」
5:8 その時、王の知者たちがみなはいって来たが、彼らは、その文字を読むことも、王にその解き明かしを告げることもできなかった。
5:9 それで、ベルシャツァル王はひどくおびえて、顔色が変わり、貴人たちも途方にくれた。

皆さんは、ネブカデネザル王が見た像の夢を覚えているでしょうか?
金の頭は、反映する偉大なバビロン帝国を表していましたが、それはやがて終わり、銀の胸と両腕に取って代わります。
夢の中で銀の胸と両腕が表していたのは、次に来るメディア・ペルシャ帝国でした。
その移り変わりの時を描いているのが、ダニエル書の5章です。

時は、前回の話から30年くらい一気に飛び、ベルシャツァル王の時代です。
ベルシャツァル王はネブカデネザルの孫であり、王と呼ばれてはいますが、彼の父親であるナボニドスとの共同統治であり、第一の権力は父ナボニドスが持っています。
(聖書には、『ベルシャツァルは、…“父”ネブカデネザルが…』という表記がありますが、これはヘブル語に“祖父”や“子孫”を表す言葉がないからです。だからユダヤ人は先祖であるアブラハムの事を“父”アブラハムと呼び、神様はアブラハムに『あなたの“子(子孫)”は星の数ほど多くなる。』と言っています。)

さて、こうしてベルシャツァルが王の時代にバビロン帝国は滅ぼされることになるのですが、一体彼らに何が起こったのでしょうか?
そして、わたし達はベルシャツァルの失敗から何を学ぶことができるのでしょうか?

① ベルシャツァルの慢心
さて、ベルシャツァル王は、1000人の貴人を集めて大宴会を催していたと書かれています。
さらに酔って調子に乗った彼は、ふいに思い立ち、祖父ネブカデネザル王がエルサレムの神殿から略奪してきていた金と銀の器を持ってこさせ、それでワインを飲んで見せます。
この器は神様に捧げものをするための器でしたが、ベルシャツァルはその器で、金、銀、青銅、鉄、木、石の偶像を賛美したというのです。

ベルシャツァルの高ぶり、慢心、酩酊、放蕩、そして真の神様を冒涜して偶像を崇めた罪が、バビロン帝国に滅亡をもたらす事になりました。
このような状況を見るだけでも、バビロン帝国がどうして滅ぶことになってしまったのかが分かるような気がします。
しかし、聖書には書かれていない、この時のバックグラウンドが分かると、これがどれほど酷い状態だったかという事が分かってくるんです。

この頃、ペルシャ帝国はすでに力を付けて、その勢力をどんどん増してきていました。
ペルシャのクロス王はメディア帝国と戦い、それに打ち勝って二つの巨大な王国がメド・ペルシャとして併合しました。
このメド・ペルシャは更に、バビロン帝国のいくつかの地域も占領して、包囲し始めていたのです。

メド・ペルシャがいつ攻めてきてもおかしくないような危機的状態にあったにもかかわらず、ベルシャツァル王は1000人の貴人と共に宴会を開いて酔いしれていたのです。
バビロン帝国が滅びるなんてありえないと、彼は考えていたのでしょうか?
あるいは、もうどうでもよくなってしまっていたのでしょうか?
それとも、現実から逃避していたのでしょうか?
すべては彼らの慢心や諦めによって起こされていたのです。

イスラエルの末期も、このような状態でした。
イザヤ 56:11 この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。
56:12 「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」

そして新約聖書では、パウロ先生もこのように忠告しています。

Iテサロニケ 5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

現代も、同じような状況になっているのではないでしょうか?
人生なんてどうなってもいいやと自暴自棄になっていたり、この世界が終わるなんてありえないという慢心の中で、全ての事に諦め、快楽に酔いしれるという事がわたし達にもあるのではないでしょうか?
そう考えると、わたし達の国も、またこの世界そのものが、どんどん終わりに近づいているんだなぁと思ったりするわけです。

② メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン
この後、ベルシャツァルは驚愕の光景を目にする事になります。

5:5 すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、
5:6 王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。

こんな光景も目にしたら、そりゃあ恐ろしくなりますよね。
ベルシャツァルはすっかり酔いもさめて、この不思議を解明しようとします。
彼は呪文師や星占い師を呼び寄せると、この指が書いた文字を解読させようとしました。
しかし、誰もそれを理解することができません。
そんな所にダニエルが連れて来られ、このメッセージを読み解くわけです。

この不思議な指によって書かれた言葉は、『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』という言葉でした。
こうして聖書を読んでいると、カタカナで表記されているこの言葉は何かの呪文のようですが、実はヘブル語の方言とも言われるアラム語だったのではないかと言われています。
“メネ”というのは、ヘブル語では“ミナ”という言葉で、重さや貨幣の単位として使われる言葉です。

続いて “テケル”というのは、ヘブル語だと“シェケル”。
これも、旧約聖書の中に出てくる重さや貨幣の単位です。
他にも「量られる」という意味の動詞としても理解することができるそうです。

さらに、 “ウ”は「そして」という意味の言葉、“パルシン”は「半分」という言葉の意味のアラム語だと言われています。
そんなわけで、ユダヤ人であるダニエルにはこの文字を見ただけである程度読み取ることができたわけですが、しかしこの言葉を繋げただけではあまり意味が分かりません。
そこに込められたメッセージを、解き明かすことができたのが、ダニエルを通して働く聖霊の働きだったのだと思います。
ダニエルはこのように解き明かしました。

ダニエル 5:25 その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』
5:26 そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。
5:27 『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。
5:28 『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」

その預言が実現して、その夜、メド・ペルシャはバビロン帝国を侵略し、ベルシャツァルは殺されました。

③ 知るものの責任
さて、わたし達はこの話の中に出てくる不思議な出来事にばかり心が惹かれてしまう傾向もありますが、わたし達はベルシャツァルの罪と失敗から多くの事を学んでいく必要があると思います。
ベルシャツァルの罪と失敗とは、何だったのでしょうか?

これまで登場していたネブカデネザル王は、ユダ王国を滅ぼし、人々を恐怖によって支配しようとした強くて恐ろしい王でしたが、神様の御業を認める王でもありました。
やがてネブカデネザルは、神様による取り扱いを受け、その心が動物と同じようになり、その体験を通して神様を恐れることと、謙遜な生き方を学びました。
その孫であったベルシャツァルは、おじいさんがそのような人生を送ったことを見ていたし、知っていたのです。

しかし彼は、祖父の人生から何も学ぼうとせず、自分は傲慢の限りを尽くし、神様に向かって高ぶり、神様のために用いられていた神殿の器を使って酒を飲み、偶像を賛美しました。
ネブカデネザル王は神様を知る機会を得てたくさんの事を学びましたが、ベルシャツァル王は、神様を知る機会がありながら高ぶって神様を侮辱したのです。

パウロは、手紙の中でこのように書いています。

ローマ1:21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。

日本人は無宗教だと言われますが、特定の宗教に所属するのが嫌なだけで、実際には宗教が大好きな人たちが多いです。
いわゆるスピリチュアル系と言うのが、特定の宗教の色をなくした宗教の姿ですね。
そういう人たちの多くは、「全ての宗教の教えは同じだ。」と言います。
でも、ちょっと調べてみるとそれぞれの宗教の教えは、肝心なところで全然違う事は誰が見てもわかる事です。
なぜそれがわからないのでしょう?
それは、彼らが知らないから、調べていないから・・・ではないのです。
彼らはそれを知識として知っていても、その中で福音に触れていても、本当の神様を知ろうとせず、自分の都合の良い事だけを受け取ろうとするので、真理を理解することがないのです。

現代の日本で、神様について、聖書について、福音について知ることは誰にでも簡単にできます。
本屋にもコンビニにもいろんな本があるし、パソコンで検索すれば知識はいくらでも得られます。
しかし、それを自分の事として受け取り、信じる事がなければ何の意味もありません。
それどころか、知っているのに何もしない事は、知らないからできないという事に比べて罪が重いでしょう。
ベルシャツァルは、まさにそのようなわけで、国王としての地位を失い、命を失う事になったのです。

私たちにもまた、同じことが言えます。
神様は、私たちに何を示しているでしょうか?
私たちにどのような人生を歩ませ、私たちが何をするように導いているでしょうか?
私たちが生きるこの世界にも、終わりが迫っているのです。
私たちは、神様を知り、信じている者の責任を果たすことができますように。
ペンテコステに与えられた聖霊は、私たちが単に平安な日々と幸せを味わうために与えられたのではなく、与えられた使命を果たすために与えられているものなのですから。

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