詩篇119:105-112 『御言葉をともし火にして』 2008/01/13 松田健太郎牧師

詩篇 119:105~112
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、
私の道の光です。
119:106 私は誓い、そして果たしてきました。
あなたの義のさばきを守ることを。
119:107 私はひどく悩んでいます。
主よ。みことばのとおりに
私を生かしてください。
119:108 どうか、私の口の進んでささげるささげ物を
受け入れてください。主よ。
あなたのさばきを私に教えてください。
119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。
しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
119:110 悪者は私に対してわなを設けました。
しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。
119:111 私は、あなたのさとしを
永遠のゆずりとして受け継ぎました。
これこそ、私の心の喜びです。
119:112 私は、あなたのおきてを行なうことに、
心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。

みなさんは、ロビンソン・クルーソーの話を読んだ事があるでしょうか?
多くの方は、子供のころに絵本や子供向けの童話として読んだ事があるのではないかと思います。
この話しは、実はある実在の人物がモデルとなっています。
モデルとなったその人物は、アレキサンダー・セルカークという船乗りでした。

物語で読むロビンソン・クルーソーはとても優しく紳士的な人物として描かれていましたが、アレキサンダー・セルカークという人はそうではありませんでした。
彼は荒々しく、のんだくれで、手のつけられないような乱暴ものだったのです。

1704年のあるとき、アレキサンダー・セルカークは船長との争いがきっかけとなり、とうとう南米沖合いにある無人島に置き去りにされてしまいました。
そして1709年に海賊船によって助けられるまでの4年半もの間、彼はその無人島で自給自足の生活をして何とか生き残ったのです。

何年もの間、セルカークを孤独や、不安や、見捨てられたことに対する怒りから救い出したものは何だっと思いますか?
それは、クリスチャンであったセルカークの母親が、息子がいつか読むようにと荷物の中に忍ばせておいた、一冊の聖書だったのです。

それだけではありません。
海賊船に助けられたとき、セルカークは5年前とは別人のようになっていたのです。
彼の身辺はすっかり整理され、彼は生まれ変わったように優しく、愛に溢れた人物となっていました。
一冊の聖書は彼の命を支え、力を与え、新しく生まれ変わらせたのでした。
今日は、私たちの信仰の土台であり、今も人々の人生を変え続けているこの聖書に焦点を当てて、共に学んでいきましょう。

① 聖書の権威を信じる
さて実を言うと、僕は礼拝メッセージの中でお勉強のようなお話しをするのがあまり好きではないのですが、まず私たちは聖書とは何なのかという事をしっかりと認識しておかなければなりません。

聖書は、およそ40人の人々によって1500年以上に渡って書かれ完成しました。
私達プロテスタントの教会が聖書として認めているものは、旧約聖書39巻、新約聖書27巻の合計66巻ですね。
今、みなさんのお手元にある聖書に掲載されているものだけをもって聖書と呼ぶわけです。

プロテスタント教会ではと言ったのは、カトリックや東方正教会ではそれぞれ見解が違うからですね。
プロテスタント教会では、聖書の出所がかなりしっかいりしているものだけを残し、疑わしいものはかなり除外してしまったので、カトリックや正教に比べて巻数が少ないのです。
私たちの聖書に載っていない部分に関しては、他の教派も偽典や外典と呼んで2次的な扱いをしていますが、天使がたくさんでてきたり、少し神話っぽいつくりの物が多いです。
他にも、トマスの福音書やパウロ行伝というような、内容的に明らかな異端文書もありましたが、歴史の中で排除されてきました。
最近では、ナショナルジオグラフィックによってユダの福音書が解読されて話題になりましたね。
あれもグノーシズムという思想から生まれた異端的信仰の書です。
また、一昨年前に騒がれたダ・ビンチコードなどで参照にされていた文書も、ほとんどが出所の怪しい異端文書です。

多くの研究者がキリスト教や聖書には批判的、否定的な立場から研究していますから、聖書学者だからと言っても彼らの言う事には気をつけなければなりませんね。
そういった異端文書は、歴史的にどんな思想が存在していたかという事を研究するにはよい材料かもしれませんが、そこに語られている事の多くが真理から大きく外れています。
私たちが使っている聖書に載せられているものは厳しい目で選り分けられて残されたものですから、私たちは安心して信じる事ができるのです。

とはいえ特に近代になってから、聖書の正当性を疑い、聖書に書かれている内容も鵜呑みにはしないで、聖書を客観的かつ学問的に分析する批評学という研究がされてきました。
またその様な中から、聖書は人の手によって書かれたものであり、だから間違っている部分もあると捉えるリベラルの神学も生まれてきました。
その様な観点で見たほうが理性的であり、知性定期であり、現代人にとって受け入れやすくわかりやすいという部分はあるのかもしれません。
実際に、日本の多くの教会では、このような神学の元に聖書が語られ、理解されているのが現状です。

しかし、聖書にはこのように書かれているのです。

IIテモテ 3:14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、
3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

聖書は確かに人の手を通して書かれました。
しかしそれは神の霊感によって書かれたものであり、誤りなき神の御言葉そのものです。
私たちは、その様な信仰の元に教会を建てあげていかなければなりません。

もし聖書の正当性を疑うなら、どうして私たちは信仰など持つ事ができるでしょうか。
もし聖書の真実性を疑うなら、どうして救いに確信を持つ事ができるでしょうか。
もし現実から判断して、奇跡はないと断言するなら、困難な状況の中にあってどうして私たちが平安を持ち続ける事などできるでしょうか。
そして、この聖書という書物が、どうして人の人生を変える力など持ちえるでしょうか。
「あなたの信仰があなたを癒したのだ。」とイエス様が言われたように、信仰のあるところにこそ神様の力は豊かに注がれます。
皆さんが聖書を信仰の土台として、確かな確信をもって信じる事ができますように、心からお祈りいたします。

② 御言葉のたね
さて、どの様な心で神様の言葉を聞いたらいいのかということについて、イエス様ご自身がこのようなたとえ話もしています。

マルコ 4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」

ある人は、聖書の御言葉を聞いても、悪魔が私たちに信じさせまいとしてささやく言葉に惑わされて、御言葉を心から受け取る事ができません。
ある人は、聖書の言葉を聞いては喜んで受け取るけれど、その言葉が彼らの内に根付くことはなく、少し困難あるとたちまちつまずいて御言葉から離れてしまいます。
ある人は、御言葉を聞いて耳には入っているけれど、生活の事や裕福になる事、そのほかいろいろな欲望が心の内にあって、御言葉がそこに実を結ぶ事ができません。
しかしある人は、御言葉を聞いて受け入れ、豊な土の上で種が芽吹いていくように、御言葉の種はその人のうちで30倍にも、60倍にも、100倍にも膨れ上がって成長して、その人を豊かにしていくのです。

そこにあるのは、私たちがその御言葉をどのように解釈して、どれだけ大きくしていくかという事ではありません。
私たちが心から喜んで御言葉を受け入れるその姿勢によって、御言葉は私たちの内で自ずから大きく育っていくのです。

私たちの心は良い地となって、御言葉の種を豊かに成長させているでしょうか?
懐疑的になったり、えり好みをした御言葉の受け入れ方をしてはいないでしょうか?
あるいは偏見をもって、ゆがんだ捉え方をしようとしてはいないでしょうか?

聖書には、私たちの心に根付く御言葉の種は、たとえからし種のように小さくても構わないのだと言っています。
からし種は、種のときは本当に小さなものでしかありませんが、その種の小ささからは想像できないほど大きな茂みへと成長していきます。
私たちの心に根付くのが、たとえほんの些細なひとつの御言葉であったとしても、私たちの心が喜んで受け入れようとする良い地のような状態であるなら、そこから御言葉は大きく成長し、そこに新たな種が生まれ、さらに豊かに成長していく事もできるのです。

③ 我が足のともしび
同じように聖書を読んでいるようでも、あるいはとても熱心に聖書を読んでいるようでも、その御言葉を私たちがどの様に受け取るかによって、聖書の言葉が私たちに及ぼす影響も大きく変わってきます。

僕よりももっと聖書のことに詳しく、何十年も研究し聖書を教えている聖書学者が、実はイエス・キリストは神の子であり救い主であるという事を信じられていなかったり、心に平安がないという事があります。
その様な人たちの多くは、私達人間の社会での価値観や科学、社会的なことを基準にして聖書を読み、理解しようとしているのです。
しかし、この聖書を書いたのが、この世界を創られた創造主である神様ご自身の御霊であり、それが真実なのだとすれば、私たちはむしろ聖書を基準にしてこの世界の事を見ていかなければならないのではないでしょうか。

今私たちが生きているこの世界は、何が正しくて何が間違っているのかハッキリさせる事ができない、むしろ善も悪も存在しないことが正しい価値観であると思わされているような世界です。
その様な中にあって、誰もが行く先を見失って、暗闇の中をさまよっているようです。
私たちはどの様に子育てをし、どの様に人と接し、何を第一のものとしてどの様に生きるべきなのか、めまぐるしく変わる価値観の元で誰もがその指針を失っています。
しかし「草は枯れ、花はしぼんでも、神の御言葉はとこしえに立つ(イザヤ40:8)」と書かれているように、神様の言葉は決して変わることがありません。

決して変らない神様の御言葉、聖書は、そんな暗闇の中に点されたともし火です。
御言葉が私たちの足元を照らし、私たちを神様の元へと導いてくれる。
聖書が私たちに力を与え、希望を与え、罪に背を向けさせ、どん底から引き上げてくれるのです。

それは、私たちが聖書を神様の御言葉と信じ、心から受け止める信仰によって余すことなく受け取る事ができる大きな恵なのです。
皆さんのうちで、御言葉の種が大きく育ち、聖書がアレキサンダー・セルカークの人生を変えたように、皆さんの人生をひっくり返すほどに大きく変えてくださいますように、心からお祈りいたします。

だからこそ私たちは、まず自分の心が聖霊に満たされて、主の臨在の確信を得ている状態から始める必要があるのではないでしょうか。
そして、主が共にいてくださるという確信と平安の元に、時が満ちて雲が上った時、主の導きのままに歩き始めればいいのです。
私達が歩みを進める中で、神様が共にいてくださるという確信が薄れてきたなら、それは恐らく私たちが道を外れているのでしょう。
その時にはまた方向修正をし、主と共に歩む道を歩き始めたらいいのではないでしょうか。

もちろん私達は、私達の前に広がる道がどんな道だったとしても主の導きに従うという覚悟が必要だと思います。
その決心が前提としてあるのでなければ、私たちはそもそも自分にとって都合の良い道しか見ようとしないからです。
そして神様に心を開き、すべてを委ねて心を静め、祈り求めていかなければなりません。

これから、少し静まって一緒に祈る時間を持ちたいと思います。
現在大きくいってふたつの点に関して導きを求めているところですから、その事について導きが示されるように一緒に祈っていただけますでしょうか?

ひとつには、この場所が混雑してきている事に関してです。
このままこの場所に留まってやっていく方法を模索していくべきか、それとももっと広い場所に引っ越すことが御心なのかという事。

そしてもうひとつのポイントとしては、この教会の教会としてのあり方です。
西葛西国際キリスト教会が、どの様な群れとして成長する事がこの教会に与えられている使命なのか。
教会とは何かというテーマについて考えながら、これから数ヶ月のメッセージをしていこうと思っていますから、その中で多くのことが示されるように、共に祈っていただけますでしょうか。

それでは、少しの間静かに祈る時間を持ちたいと思います。

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