イザヤ9:1-7 『 クリスマスメッセージ~苦しみのあったところに 』 2011/12/25 松田健太郎牧師

イザヤ9:1~7
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

2011年は、わたし達日本人にとって忘れられない年の一つとなりました。
地震、津波、放射能、それによって多くの人達が住む所を失い、仕事を失いました。
そしてその2次被害3次被害は、被災地から遠く離れた人達にまでおよび、多くの人達がストレスによって心身に支障をきたし、多くの自殺者を生んでいます。
日本だけでなく、世界的に見ても、さまざまな出来事があった1年でした。
今ここにいる皆さんの中にも、家族や知り合いが闇の中で苦しんでいたり、いま自分自身が苦しみの中にあるという方もいらっしゃるのではないかと思います。
今から2700年も前の事、イスラエルの人々も、今の私たち同じように闇の中で絶望を味わっていました。
神の祭司として選ばれたイスラエルの民は神様から離れ、期待されていた王は結局何も特別な働きをする事もなく死んでしまったのです。
その時、預言者イザヤに与えられたのが、暗闇の中に希望をもたらすこの預言だったのです。

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

この預言が与えられてから700年ほど経った時、暗闇の中で長い間苦しんできたイスラエルの人々に希望の光が与えられました。
それが、イエス・キリストだったのです。

イエス様の誕生は、2000年後の今も、わたし達に希望の光を与え続けています。
わたし達がイエス様と出会う時、苦しみのあった所には闇がなくなります。
闇の中を歩んでいた人々は、大きな光を見ます。
死の陰の中に生きる人々の上には、光が照るのです。

イエス様の存在が、どうしてそのような希望の光となり得るのでしょうか?
今日は4つのポイントからそれを共に見ていきたいと思います。

① 不思議な助言者
まず第一に、イエス様はわたし達の“不思議な助言者”だからです。
わたし達が苦しみ、悩む時、わたし達がまず必要とするのは自分の話を聴いてくれる人ではないでしょうか?
イエス様はわたし達の悩みに耳を傾け、理解し、共感して下さる方です。
イエス様は、言います。

マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたし達は、自分の人生は自分が舵を握り、自分でコントロールをしなければならないと信じて生きてきました。
だからわたし達の心には、いつでも不安が付きまといます。
なぜなら、未来の事は誰にとっても不確定だからです。
そんなわたし達に必要なのは、イエス様の元に行き、重荷をおろし、それをイエス様に担っていただく事です。
イエス様は、わたし達の全てを知って下さる方だからです。

ある詩篇の作者はこのように言っています。

詩篇 139:2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
139:3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
139:4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
139:6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。

人のアドバイスやカウンセリングは、あくまでも他人事の意見でしかない部分があります。
本人にしかわからない事がたくさんあるのだから、仕方がありません。
でも、神様は全てのことを知っています。
わたし達以上に、わたし達の事を知っているイエス様だから、わたし達にもっとも相応しい助言をする事ができるのです。
わたし達の生きる意味も、目的も、人生の計画の全ても。
不思議な助言者(ワンダフル・カウンセラー)が与えてくれる助言は、絶望と闇の中にいるわたし達に希望の光を与えてくれるのです。

② 力ある神
第2に、イエス様は“力ある神”であるという事です。
ある人達は、「イエスは素晴らしい人格者であり、偉大な宗教者だった。」と言います。
でも、それだけだったとしたら、わたし達は励ましを受ける事くらいはできるかもしれませんが、イエス様はわたし達の希望の光とはなりません。

イエス様は、わたし達にただ良い事を教えてくれたのではなく、わたし達に力を与え、新たな命を与え、癒し、導いて下さいました。
そこに起ったのは、単に不思議な出来事なのではなく、世界を創造した神でなければ起らないような創造の奇蹟でした。
イエス様は、そのような力を持っているお方なのです。
そうでなければ、どうして希望の光になることができるでしょうか?

③ 永遠の父
第3に、イエス様は“永遠の父”であるという事です。
イエス様は、不思議な助言者であり、力ある神だった。
それは、実際にイエス様が生きて活動していた2000年前だけの話ではなくて、イエス様は今でもわたし達と共にいて下さいます。
イエス様は、永遠に変わらぬお方だからです。

お父さんという存在は、現代の日本ではとても威厳がなく、頼りない存在になってしまっています。
また、子供の人生には何も関わりがなく、興味もないようなイメージさえあるかもしれません。
しかし、聖書の中に描かれる父親像はそのようなものではありません。

ユダヤ人の文化で、子供たちに聖書の事を教えるのは、父親の役目でした。
父親は子供の教育に深く関わり、そして敬われる存在だったのです。
神様はわたし達を教え、導き、愛してくれています。

イエス様のたとえ話の中で、有名な“放蕩息子”のたとえ話があります。
ある日、父が死ぬ前に財産を要求し、そのお金を放蕩して使い果たした息子がボロボロの姿で帰って来た時、お父さんは臭くて汚い息子に走り寄って抱き寄せました。
そして、息子を責めることもせず、せめて使用人として雇ってもらえればと考えていた息子の言葉を聞こうともせずに、喜びをもって再び息子として迎え入れたのです。

わたし達がイエス様に背を向け、その存在を無視し、あまつさえ侮辱していた時でさえ、イエス様はわたし達の心の扉の前に立ち、わたし達が心を開くのを忍耐強く待ち続けていて下さいました。
そしてわたし達が対の心の扉を開いた時、放蕩息子の父親が息子にそうしたように、わたし達を抱きしめ受け入れて下さったのです。

地上のお父さんでさえ、わたし達を愛する心を持っています。
しかし、例え父親が子供への愛情を忘れたとしても、イエス様がわたし達の永遠の父となって下さるのです。

④ 平和のきみ
そして最後に、イエス様はわたし達の“平和のきみ”だという事です。
闇の中を歩むわたし達の心は、いつも不安な心で満ちています。
わたし達は先を見通す事ができず、この世の中には不安や心配の材料が山ほどあるからです。

不安や心配だけではなく、心からかき乱されて、荒んでしまったりいらだちや怒りで満ちている人もいるでしょう。
しかし、わたし達がイエス・キリストを救い主として信じる時、わたし達の心には平和、平安が与えられます。
わたし達を助け、導いてくれる方が、いつでもわたし達と共にいて下さるからです。
この世界の創造主である主が共にいてくれるなら、わたし達は何も心配する事などないからです。

今この地上で起っている事、自分自身の人生や周りで起っている現実を見る時、わたし達の心は時として沈み、希望を見失う事もあります。
しかし、それでも神様はわたし達を愛しているのです。
父なる神様にとって、もっとも大切で代えがたい存在であるひとり子、イエス・キリストをわたし達の元に送ってくださった事が、何よりの証拠です。

聖書の言葉はこの様に続いています。

9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

そこには、万軍の主である神様の情熱と努力があります。
わたし達がいい人間になり、努力したからそうされたのではなく、神様を無視し、罵り、神様に全ての責任をなすりつけてきたようなわたし達のために、神様は希望の光を与えて下さったのです。

今、闇の中に自分がいると感じている方がいらっしゃるかもしれません。
あるいは、それほど絶望的にはならず、それなりにやっているという方もいらっしゃるでしょう。
しかし、イエス様はそれ以上の安らぎと、喜びを与え下さるお方です。
イエス様をまだ救い主として受けれていない方は、今日この救い主を、最高のクリスマスプレゼントとして受け取りませんか?

また、すでにイエス様を信じているはずなのに、希望を持てなかったり、不安の中にいる方がいらっしゃるかもしれません。
その方は、わたし達のために与えられた救い主がどのような方かという事を、もう一度思い返してみてはいかがでしょうか?

インマヌエルの主は、いつでも、どんな時でも、わたし達ともにおられます。
祈りましょう。

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