ローマ8:14-26 『神様のこどもであること』 2010/01/24 松田健太郎牧師

ローマ8:14~26
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

エペソ1:3~6
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

僕の人生には、これまで嬉しい事、喜ばしいことがたくさんありました。
その中で、最も嬉しい事、楽しいことのひとつは父親になった事です。

僕はいま37歳。
世間では、働き盛りのあぶらが乗ってきた年頃です。
日本の多くのお父さんたちが、会社で頼りにされ、そして家族を支えるために身を粉にして働いています。
でも、ほとんどのお父さんは、仕事に忙しく、帰りも遅く、子供たちとなかなか時間を共に過ごすことができないと聞きます。
それに比べたら、僕の環境はとても恵まれています。
牧師という仕事と共に、家事子育てをするのが僕の家での役割です。

今は、こどもはふたりとも保育園に入ってしまいましたが、それでも一般的なお父さんたちからしたら、比べ物にならないくらいたくさんの時間を一緒に過ごす事ができています。
こんな祝福はないですよ。

最初はこんなに小さくて何もできなかった赤ちゃんが、僕のする事に反応するようになって、動き、ハイハイし、歩いて、おしゃべりするようになっていくんですよ。
その成長のときを、一緒に経験することができるだけでも、本当に嬉しいことです。

もちろん、大変なときもあります。
奈緒美も叙那も、それほど熱を出したりするわけではありませんが、たまに高い熱をだしたりすると本当に心配です。
時には夜中近い時間でも、タクシーで救急病院に連れて行かなければならないときもあります。
教会が西葛西にあったころ、僕の不注意で奈緒美が階段を、上から下まで転がり落ちたことがありました。
顔中傷だらけになって、大きなたんこぶを作って泣き叫ぶ奈緒美を連れて近くの病院に行きましたが、脳は大丈夫かとか、本当に心配したものです。
また、乗っていた自転車が倒れてしまったときには、あごの所に深い傷をつけてしまい、これが彼女の心に一生傷をつけてしまったらどうしようかと思ったこともありました。

また、奈緒美も叙那もいたずらが好きでなかなか言うこともきかないものですから、叱らなければならない時もたくさんあります。
時として、叱られて泣き叫ぶ子供たちを見るのは辛いときもあります。
でも、自分勝手な大人になって、あとから変な苦労をしなくてもいいように、今からいろいろな事を覚えて、身につけていかなければなりませんね。

勉強を教えていかなければならない時もあります。
本格的なお勉強は、どちらもまだまだこれからですが、うちは日本語英語両方しゃべれないと困る家庭ですし、少しずつですが字も学び始めています。
勉強は嫌だという事も出てくるでしょうが、嫌だからやらなくていいという事にはなりません。
かといって、無理やり縛り付けてでも勉強というのが正しいとも思えない。
どうしたらいいのかと悩むことも、でも楽しい事でもあります。

家ではわがまま放題の部分もありますが、基本的にはふたりともとても優しくて思いやりのある子達で、家の外では他のお母さんたちや、保育園の先生たちにほめられる事もあります。
また、『かわいいですね~。』なんて言われる事もあると、親としてはやっぱり悪い気はしないものなんですよね。

しかし、どんな事よりも、何よりも幸せを感じるときは、元気いっぱいのふたりが、“Daddy, I love you!!”と言って抱きついて来てくれる時です。
叙那もまだ話すことはできませんが、僕を見つけると遠くから嬉しそうに走ってきて、僕に抱きついてくれます。
そのとき、あ~、お父さんは本当に幸せだなぁと思えるんですね。

これがいつまで続くのか、小学生になっても、中学生になっても、高校生になっても、大人になっても、いつまでもしてくれればいいのになぁと思うのですが、こればかりは望めない事かもしれませんね・・・。(笑)

さて、僕は牧師ですという自己紹介をした時、勇気あるノンクリスチャンの方からこのように聴かれることがあります。
「キリスト教ってどんな教えなのですか? クリスチャンなるために、どんな事を守らなければならないのでしょう?」
クリスチャンになるということは、キリスト教の教えに従って、何かの規律に従うということではありません。
イエス様をお兄ちゃんとして、この世界を創造した神様の、子供として生きる事がクリスチャンとして生きるという事なんです。
まぁ、そういう風に言うと、大体の人はキョトンとしてしまいますけどね・・・。(笑)

わたし達は神様によって作られた被造物です。
しかも、作ってくれた神様に反逆した者です。
子供とされる資格なんて、本当は誰にもない。
でも、イエス様がわたし達のために十字架にかかり、罪をあがなって下さったとき、わたし達はただ単に赦された罪びと、被造物、しもべという立場に留まるのではなく、神の子供とされる特権も与えられたのです。

神様の子供にされたって、どういう意味ですか?
わたし達が祈るときに、「天のお父様・・・」って祈り始める。
でも、それだけの事ではありませんよね。
神様の子供とされたということは、奈緒美や叙那が僕のために何かをしてくれたから二人のことを愛するのではないのと同じように、その存在そのものが愛されているという事です。
神様の子供にされたという事は、奈緒美や叙那が悪いことをしたからといって見捨てられなかったのと同じように、わたし達は絶対に見捨てられないということです。

神様は・・・、
わたし達が罪を犯さなくなったからから、愛して下さったのではありません。
わたし達が賢くて、素晴らしい人間になったから愛して下さったのではありません。
わたし達が、忠実に従うから愛して下さったのではありません。
わたし達が、聖書を毎日読むから愛して下さったのではありません。
わたし達の賛美が上手だから愛して下さったのでもありません。
わたし達がたくさんのものを捧げたから、愛して下さったのでもありません。
わたし達が信仰深い人間になったから愛して下さったのでもありません。

無条件の愛というと、何だか抽象的でわかりにくいですけど、こうやってひとつひとつ考えてみると、その意味が少しずつわかってくるでしょ?
皆さんが人に誇ることができるものがあったら、それがなくても愛されているという事をじっくり考えてみて下さい。
そして、例えわたし達が神様を愛さなかったとしても、神様はわたし達を愛して下さっているのです。
そのことが本当に心に染みてきた時に、わたし達は心から神様を愛し、神様のためにもっと仕えたいと思うようになるのです。

このようにして、わたし達が心から神様の愛に浸り、今度は自分が神様のために何かしたいと思い始めたとき、わたし達はもうひとつの壁にぶつかってしまう事がよくあります。
それは、自分の力のなさ、無力さ、罪深さを知って、自分には神様にお返しをしてあげることができないと思い知る時に起こります。
わたし達はその時、自分にはなんと愛がないのかという事を思い知ります。
自分には、何と勇気がなく、何と能力がないのだろう・・・。
何と簡単に怒り、人を憎み、赦すことができず、至らない存在なのだろうと気がつくのです。

この壁を乗り越えるヒントとして、ひとつのたとえ話をして、今日のメッセージを終わりたいと思います。
父親が、11歳の息子と共に、自分の家の庭作りの仕事をしていました。
父親は息子に言いました。「そこに大きな石があるだろう? その石は邪魔なので、庭のこっち側に持ってきたいんだ。どんな方法を使ってもいいから、その石を動かしてくれないか。」
息子は「良いよ!」と言ってあの手この手を使って、その石を動かそうとしました。
持ち上げようとしたり、押してみたり、引いてみたり、テコを使ったり、シャベルやいろんな道具を持ち出してやってみましたが、その石を動かすことができません。
それどころか、その石はすぐ隣にあった溝に落ち込んで、まったく動かせなくなってしまいました。

息子は父親に言いました。「ムリだよ。できない。」
すると父親は言いました。「どんな方法を使ってもいい。あらゆる手段を使って、その石を動かしてみなさい。」
息子は庭に戻って、いろいろと手を尽くしましたが、石はもうビクともしませんでした。
「ダメだ。どうやってもぜんぜん動かない。」
父親は、「まだやっていない事があるはずだ。やってみなさい。」
息子は石をカナヅチで叩いてみたり、足で蹴ってみたり、とにかく何でもやってみましたが、石を動かすことはできません。
「全部試してみたけど、やっぱり動かない。この石を動かすことなんてムリだよ。」
「全部という事はないだろう?」
「できることは全部やったよ。」
「いや、まだ試していないことがある。」
「ないよ、全部試した。」
「いいや、まだ試していないことがあるね。」
「これ以上、どんな方法があるって言うのさ!?」
「息子よ、お前はまだ、お父さんに手伝ってくれと頼んでいない。」

わたし達は、いろんな方法で問題を解決しようとしたり、立派なクリスチャンになろうと努力をします。
しかし、聖書がわたし達に求めている事はあまりにも難しくて、わたし達には到底ムリなことです。
わたし達は、お父さんに助けを求めていいのです。
天のお父さんはむしろ、その事を心から求めておられます。
わたし達の前にあるその大きな石を、共に動かすということを・・・。

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