イエスの権威についての論争(マタイ 21:23–27)
神殿の清め(21:12–17)といちじくの木の象徴行為(21:18–22)のあとに置かれ、 「イエスの権威はどこから来るのか」という核心をめぐる場面です。
1. 舞台:イエスは「神殿で教えていた」(21:23)
イエスが宮に入って教えておられると…
イエスは神殿を清めただけでなく、 神殿で教える権威をもっておられた。
これは宗教指導者たちにとって脅威でした。
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神殿は自分たちの領域
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教える権威は自分たちの特権
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赦しの制度も自分たちが握っている
そこにイエスが入り込み、 弱い者を癒し、子どもたちが賛美し、 神殿の本来の姿を回復してしまった。
宗教指導者たちは、 自分たちの権威が揺らいだと感じたのです。
2. 宗教指導者たちの質問:権威の源を問う(21:23)
「あなたは何の権威によって、これらのことをしているのか。」
ここでの「これらのこと」とは、
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神殿の清め
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弱い者の癒し
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子どもの賛美を受け入れること
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神殿で教えること
つまり、
「あなたは誰の許可で神殿を支配しているのか?」
という問いです。
これは単なる質問ではなく、 イエスを罠にかけるための政治的・宗教的な挑戦。
3. イエスの逆質問:ヨハネのバプテスマはどこから来たか(21:24–25)
イエスはこう答えます。
「では、わたしも一つ尋ねます。 ヨハネのバプテスマはどこから来たのか。天からか、人からか。」
これは見事な逆質問です。
なぜヨハネの話を持ち出したのか?
✔ ヨハネは「悔い改め」を求めた
✔ ヨハネは「神殿制度の外側」で働いた
✔ ヨハネは「神の権威」で働いた
✔ 宗教指導者たちはヨハネを拒んだ
つまり、
ヨハネの権威をどう評価するかで、 イエスの権威への態度が露わになる。
4. 宗教指導者たちのジレンマ(21:25–26)
彼らはこう考えます。
✔ 「天から」と言えば
→ なぜ従わなかったのかと問われる → 自分たちの不信仰が暴かれる
✔ 「人から」と言えば
→ 群衆が怒る → ヨハネを預言者と信じている群衆を敵に回す
つまり、
どちらを答えても自分たちの権威が崩れる。
これは、 彼らが真理ではなく、保身で動いていることを示します。
5. 宗教指導者たちの答え:「わからない」(21:27)
「わからない。」
これは、 真理への誠実な探求ではなく、 自分の立場を守るための逃げの答え。
イエスはそれを見抜いています。
6. イエスの結論:あなたがたが答えないなら、わたしも答えない(21:27)
「では、わたしも何の権威によってしているか言いません。」
これは拒絶ではなく、 彼らの心の状態に対する裁き。
イエスはこう言っています。
✔ 真理を求める心がない者には
→ 権威の源は理解できない
✔ 自分の立場を守ることしか考えない者には
→ 神の権威は見えない
つまり、
イエスの権威は“神の心に向く者”だけが理解できる。
7. この論争の核心:イエスの権威は「天から」
イエスは直接は答えませんが、 物語全体が答えを示しています。
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神殿を清める権威
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弱い者を癒す権威
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子どもの賛美を受ける権威
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神殿で教える権威
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いちじくの木を枯らす権威
これらはすべて、
イエスの権威が“天から来ている”ことを示す。
宗教指導者たちはそれを認めたくない。 なぜなら、 自分たちの権威が崩れるから。
※ ちなみに、イエスが持っている権威と、このとき宗教指導者たちが求めていた権威とは、同じ「権威」という言葉ではありますが、本質的に別のものです。
イエスの権威は、地上で行うように父なる神から委ねられた力であり、人を助け、救うためのものです。
一方で宗教指導者たちの権威は、自分たちが偉い人間だということを認めさせるために主張する地位や権力です。
私たち全てのクリスチャンには、地上で働きをするためにキリストのからだとしての権威が与えられていますが、
それは私たちが他の人たちよりも優れていることを主張するための権力とは無縁のものです。
8. 神殿の清めとのつながり
この論争は、神殿の清めの続きです。
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神殿の腐敗を正したイエス
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赦しを独占する制度を壊したイエス
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弱い者を受け入れたイエス
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子どもの賛美を喜んだイエス
宗教指導者たちは、 自分たちの権威が脅かされたため、 イエスの権威を問いただした。
しかしイエスは、 神の権威によって働いている。
9. まとめ(21:23–27)
宗教指導者たちは、神殿を清めたイエスに「何の権威でしているのか」と問いただした。 イエスはヨハネのバプテスマの権威を問うことで逆に彼らを試し、 彼らが真理ではなく保身で動いていることを暴いた。 彼らは「わからない」と答え、イエスは「ではわたしも言わない」と応答する。 イエスの権威は“天から”であり、神殿の腐敗を正し、弱い者を受け入れる働きそのものがその証拠である。

