マタイ5:17-30 「キリストの愛による律法の完成」(山上の垂訓その3) 2026/08/09 小西孝蔵

(初めに)NHK朝ドラ「風、薫る」の話題の続きです。主人公大関和は、黒羽藩の家老の娘で、二人の子供を抱えるシングルマザーでありながら、植村正久牧師から洗礼を受け、日本のナイチンゲールと言われる看護師の先駆者として活躍、中村屋の相馬相蔵とも親交。晩年は、伝道に捧げる。彼女の残した言葉に、「造り主なる神の有難い愛と恵みを思う時、どうして空しくこれを受けておられましょうか。この、ご恩に万が一でも報いたいと思い、父なる神は霊にいませば、その戒めに従って、隣人を愛さなければいけません。」とある。明治の名立たるクリスチャンは、新渡戸、内村、新島、植村などにみられるように、武士の子弟が多い。「主君に仕える」という武士道の精神が、「イエスという主人に仕える」生き方に置き換わった。大関和もその一人。武士道が、ある意味で日本の旧約の役割を果たしている(新渡戸)ように思われる。

1. 前回の振り返り-律法の完成(総論)

マタイ5章「17わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 18よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 ・・・ 20わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」
・前回の箇所を振り返る。若いころの私が山上の垂訓を敬遠していた理由は、厳しすぎるから。私自身、長い間、なぜ、愛のキリストがこんな厳しい掟を要求されるのか、とても付いていけないという印象を持っていた。しかし、モーセの律法に代表される厳しい旧約の律法は、山上の垂訓に於いて恵みの福音に変貌した。その理由は、弟子のヨハネや使徒パウロの証言を読むと次のように説明できる。

  1. 神の律法は、本来完全なもの。問題は、人間が神から離れ、自分を神とする罪にある。それは、律法主義ともいう生き方であり、律法のうわべだけ守っているふりをする形式主義、パリサイ主義である。イエスは、心の状態を問題にされる。
  2. 律法の目的は、神から離れた人間が悔い改めて神のもとに立ち帰ることにある。洗礼者ヨハネも、キリストも、悔い改めよ(神に立ち帰りなさい)、天国は近づいた、と言われた(マタイ3・4章)。律法の本質は、「神と人とを愛する」ことに尽きる。(マタイ22章37,39節)
  3. 神に立ち帰るとき、人間の努力や頑張りでなく、一方的な神の恵みとして、十字架による罪の贖いと復活による聖霊の働きにより、愛の人に変えられる。律法の成就は、神の義と神の愛が同時に実現できること。本日の各論で再度触れたい。

2.律法の完成-各論その1

  • 今回から各論に移る。モーセの律法のうち、人との関係の律法が6つ引用されている。イエスの言葉を対比させると以下の通り。本日は、前半の二つを取り上げる。
  1. (21節)「殺すな」-出エジプト20(13)、申命記5(17)
    ⇒(23、24節)「あなたに恨みを抱く兄弟と和解しなさい。」
  2. (27節)「姦淫するな」―出エジプト20(14)、申命記5(18)
    ⇒(28節)「情欲を抱いて女を見るものは姦淫の罪。」
  3. (31節)「離縁するものは離縁状を渡せ」-申命記24(1)
    ⇒(マタイ19(6)「神が定めたものを人が離してはならない。」
  4. (33節)「偽りの誓いをしてはならない」-レビ19(12)
          ⇒(34節、37節)「決して誓ってはならない」、「『はい』は、
    『はい』と、『いいえ』は『いいえ』と言いなさい」
  5. (38)「目には目を、歯には歯を」―出エジプト21(24)、申命記19(21)
          ⇒(39)「右の頬を打つ者には、ほかの頬を向けなさい」
  6. (43節)「隣人を愛し、敵を憎め」―レビ19(18)、申命記32(35)
          ⇒(44節)「あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」

3,殺すな(旧約律法の第一例)

マタイ5章「21昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 22しかし、・・・兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。・・・ 25あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、・・・あなたは獄に入れられるであろう。・・・最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。」

  • 殺すなと言っても、死刑はどうなのか、正当防衛の場合どうなのか、ナチスドイツでヒットラーの暗殺計画は許されないか、などという問題も残る。律法主義的に解釈するのは適当ではない。イエスは、殺人の動機、神の前の心の状態を問題にされる。
  • 兄弟に対して怒るもの、あるいは、恨みを買うもの、裁判で訴えられているものは、獄に入れられる。だから、事前に和解をしなさいという。殺してはならないという律法の本質は、その心が怒りの状態にある、愛が足りないとイエスは指摘する。

ローマ人への手紙13章「8互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。 9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。

  • 自分の心に手を置いて考えると、身近に、自分の気に食わない人がいるとここから消えてくれるといいなと思う時は、心の中で殺人を犯しているに等しい。私自身、寮生活を思い出す。ライバル意識や嫉妬心を持って接した友人や寮の規則をめぐって私に恨みを抱き私を殴った隣人がいた。その人たちと仲直りしたかというとしないまま、音信不通になったり、亡くなったりした。神の前には、理由はどうあれ、兄弟と和解しなさいと言うのは、あまりに厳しい教えであり、到底守れないと感じた。
  • 実は、私たち自身、神の前では殺人犯として裁判で告発されるべき存在。20節に言う最後の1コドラント(ローマの貨幣の最小単位、今でいうと1円硬貨)に至るまで、支払わないと釈放されない身分なのだ。しかし、神は、愛の方、罪の奴隷になっていた私を独り子イエスの十字架の贖いという対価を払って、解放して下さった。

ローマ人への手紙3章「21今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。・・・24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる。」

  • 私たちは、キリストの贖いによって1円に至るまで神の前の罪を全額支払って頂き、捕らわれの身を解放して頂いた。私たちが身代金、保釈金を払うことなく、ただ、神の恵みにより、神の前に赦され、義とされた。旧約の律法によって裁かれる身が十字架によって赦され、釈放されて、キリストにある真の自由を与えられたのは、何という恵みだろうか。

4、姦淫するな(旧約律法の第二例)

27『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。・・・ 30もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。

  • 情欲の罪については、旧約聖書では、カナンの代表的宗教バールの神による性の乱れ、新約聖書では、ギリシャの偶像崇拝による不品行の罪が指摘されている。箴言も女の誘惑には気をつけなさいと繰り返し書かれている。神から離れたことにより最も誘惑に陥りやすいのが情欲の罪。古代も今もそうした人間の心の様は変わらない。
  • 神は、人を神の似姿として作られ、夫婦関係を神と教会との関係に例えて、男女の性の関係は、本来聖なるものであり、不品行は神から離れたことによる罪の結果として陥るもの。「28だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。」これは、恐ろしく厳しい言葉である。この言葉のために、若いころ山上の垂訓を敬遠していた時期があった。人間では、何とも守れない厳しい掟に見える。
  • この問題は、スモールグループの方が話しやすいが、余談ながら余談を少し。私の現役時代、職場の行政官の同僚とある政治家との政策勉強会を持った時、その後の懇親会の席で女性関係の話になった折、その先生から私に向かって冷やかし半分に、「クリスチャン男性は窮屈だろう」と。私の答えは、「家内だけで充分です」と(笑い)。
  • 私にとっても、正直に言うと、情欲の問題は、先に触れた嫉妬と同時に、最大の罪意識のもとになった。今から半世紀前に日本は、ポルノが全盛期、いかがわしい映像がテレビや雑誌が周辺に氾濫していたので、心の葛藤、罪との戦いが続いた。特に、男兄弟二人、男子校の中学と高校、男子のみの学生寮、男性中心の職場を経験してきた私にとって、女性はあこがれの対象として理想化する一方、情欲の対象としてつい見てしまう汚い心が共存。私が情欲に弱い、罪深い存在であることは、家内がよく知っていて、時々冷やかされる。正しい夫婦関係や男女関係から外れた性欲の充足は、人間の弱さからくる。弱い自分は、無防備では勝てない。サタンの誘惑に合わないよう、聖霊に助けを祈るのみ。パウロの言葉を思い起こす。

1コリント6章「18不品行を避けなさい。・・・ 19自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。 20あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」

5.キリストの愛は、律法を成就する。

・本日のまとめとして、神様は、旧約の時代から新約に時代に至るまで、人類に変わらぬ愛、永遠の愛を注いでこられた。この愛は、旧約時代から変わらぬ愛であり、エレミヤ31章の新しい契約の宣言の前の箇所でこのように紹介されている。

エレミヤ31章「3主は遠くから彼に現れた。わたしは永遠の愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」

・旧約の時代は、神様は、神から離れ、神の律法を守らない民に対して裁き、悔い改めを要求された。そこには、神の愛の元で厳しい神の義が求められたが、新約の時代になって、キリストが十字架に於いて対価なくして罪の奴隷の中から私たちを救い出し、復活してサタンに打ち勝ち、助け主、聖霊を送って下さった。そこに無償の神の愛がある。私たちは、先ずその恵みを信じて受け取って、聖霊に委ねることが大事。

・十字架は、この「神の義と神の愛」の二つの真理が交差することを象徴している。キリストの十字架と復活に於いて、神の義と神の愛が実現し、神の律法が完成する。そこに神の国の支配がある。私たち自身の力で人を愛することはできないが、神の愛に満たされるときにはできる。聖霊の導きがあるからだ。教会のバイブルスタディでヨハネ伝を学んでいるが、ヨハネは、神の無償の愛について繰り返し語っている。

ヨハネ3章16節「神は、その独り子を給うほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである。」

ヨハネ13章14節34わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

ヨハネによる第1の手紙4章「10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 11愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。

  • 最後に、その神様の深い愛、ご自分の生命を投げ出して、私たち一人一人に永遠の生命を与えて下さったキリストの愛に心から感謝し、賛美をささげよう。

(祈り)