ヨハネ5:1-18 ベテスダの病人の癒し
38年間苦しみ続けた人(5:1-5)
その後、イエスは祭りのためにエルサレムへ上られました。
羊の門の近くには「ベテスダ」と呼ばれる池があり、多くの病人たちが集まっていました。
そこには、
- 目の見えない人
- 足の不自由な人
- 体のまひした人
が横たわっていました。
その中に、三十八年間も病気で苦しんでいる人がいました。
三十八年という年月は人生の大半に及ぶ長い期間です。
彼にとって回復は、もはやほとんど望めないことのように思われていたでしょう。
しかしイエスは、その大勢の中から一人の人に目を留められます。
「良くなりたいか」(5:6-9)
イエスはその人に尋ねられます。
「良くなりたいか。」
一見すると不思議な質問です。
しかし長年の苦しみの中で、人は希望を失ってしまうことがあります。
すると病人は答えます。
「水が動く時、池の中に入れてくれる人がいません。」
彼は癒しを望んでいましたが、自分の無力さばかりを見ていました。
するとイエスは言われます。
「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
その人は直ちに癒され、
床を取り上げて歩き始めました。
ここには信仰の告白も、長い祈りも記されていません。
ただキリストのことばだけが、人を立ち上がらせたのです。
安息日論争の始まり(5:9-13)
ところが、その日は安息日でした。
ユダヤ人たちは、癒された人が床を運んでいるのを見て言います。
「今日は安息日だ。床を運ぶことは許されていない。」
彼らは三十八年間苦しんでいた人が癒されたことには目を向けませんでした。
むしろ規則違反だと思われる行為を問題にしたのです。
癒された人は、
「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」
と答えます。
しかしその時点では、まだ癒してくださった方がイエスであることを知りませんでした。
「もう罪を犯してはいけない」(5:14)
その後、イエスは神殿でその人を見つけて言われます。
「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはいけません。」
イエスはすべての病気が個人の罪の結果だと言われたのではありません。
しかし主は、肉体の回復以上に、その人の霊的な状態を気にかけておられました。
さらに、
「もっと悪いことが起こらないように。」
と言われます。
人間にとって最大の問題は病気ではなく、神との関係の破れだからです。
父と共に働かれる御子(5:15-18)
癒された人は、その方がイエスであることを知り、ユダヤ人たちに伝えます。
するとユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたとしてイエスを迫害し始めました。
しかしイエスは言われます。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですから、わたしも働いているのです。」
神は創造の後に休まれましたが、世界を支え、救いを進める働きをやめられたわけではありません。
イエスはその父の働きに参与しておられるのです。
この言葉によって論争はさらに激しくなります。
なぜならイエスは、
神をご自分の父と呼び、
神と等しい者として語られたからです。
ここからヨハネ福音書は、単なる癒しの物語から、イエスの神性を巡る大きな論争へ入っていきます。
第三のしるしの意味
この癒しは単なる病気治療ではありません。
ヨハネ福音書における第三のしるしとして、
- イエスのことばに人を立ち上がらせる力があること
- イエスが安息日の主であること
- イエスが父なる神と共に働かれること
を示しています。
癒しそのもの以上に、
「この方はだれなのか」
が問われているのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちも時に、長い苦しみや失望の中で希望を失ってしまいます。
しかしイエスはベテスダの病人に近づかれたように、私たちにも近づいてくださいます。
また、この物語は宗教的な形式よりも神のいのちの働きが重要であることを教えています。
イエスは人を縛るためではなく、生かすために来られました。
主のことばには、今も人を立ち上がらせる力があるのです。
この箇所の中心メッセージ
イエスは三十八年間苦しんでいた病人を癒し、ご自身のことばに人を回復させる力があることを示された。
また安息日にこの奇跡を行うことで、ご自身が父なる神と共に働く方であることを明らかにされた。
イエスは人を生かし、新しく立ち上がらせる救い主である。
「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(ヨハネ5:8)

