ヨハネ6:1-15 五千人の給食
大勢の群衆を見つめる主(6:1-5)
イエスはガリラヤ湖の向こう岸へ行かれました。
しかし多くの人々が主に従いました。
彼らは病人を癒されるしるしを見ていたからです。
イエスは山に登り、弟子たちと共に座られました。
その時、
「ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。」
と記されています。
これは単なる時の説明ではありません。
ヨハネはこれから起こる出来事を、出エジプトと過越の背景の中で読ませようとしているのです。
やがてイエスは大勢の群衆をご覧になり、ピリポに尋ねられます。
「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
しかしヨハネは、
「イエスはピリポを試そうとしてこう言われた。」
と説明しています。
主はすでに何をなさるかをご存じでした。
人間の計算と主の備え(6:6-9)
ピリポは計算します。
「二百デナリのパンでも足りません。」
人間的に考えるなら全く不可能でした。
するとアンデレが紹介します。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいます。」
しかしすぐに続けて、
「こんなに大勢の人では、それが何になるでしょう。」
と言いました。
ピリポもアンデレも、不足しか見えていませんでした。
しかしイエスは、わずかなものを用いて神の豊かさを現そうとしておられたのです。
パンを増やされる主(6:10-13)
イエスは人々を座らせます。
その数は男だけで五千人ほどでした。
女性や子どもを含めれば、さらに多くの人がいたと考えられます。
そして主はパンを取り、
感謝をささげて
人々に分け与えられました。
魚も同じように与えられます。
すると、
「人々は欲しいだけ食べた。」
のです。
さらに主は、
「少しも無駄にならないように集めなさい。」
と言われます。
集めてみると、
十二のかごがいっぱいになった。
のでした。
主の供給は、必要を満たすだけでなく、豊かにあふれるものでした。
預言者か王か(6:14-15)
群衆はこのしるしを見て言います。
「まさにこの方こそ、世に来るはずの預言者だ。」
彼らは申命記18章で約束された預言者を思い起こしました。
しかし問題は、その理解が不完全だったことです。
人々はイエスを捕らえ、
自分たちの王にしよう
としました。
彼らが求めていたのは、
- パンを与えてくれる王
- ローマ支配から解放してくれる王
でした。
しかしイエスはその考えを拒まれ、再びただ一人で山へ退かれます。
主は人々の期待する政治的メシアではなく、十字架によって救いをもたらす救い主として来られたからです。
モーセを超える方
この出来事には出エジプトとの重要な類似があります。
昔、モーセの時代に神は荒野でマナを与えられました。
今、イエスは荒野のような場所で群衆を養われます。
しかしヨハネが示したいのは、
イエスは新しいモーセである
ということ以上です。
イエスは単にパンを与える方ではありません。
次の段落で明らかになるように、
「いのちのパン」
そのものなのです。
この奇跡は、主ご自身が人々の真の必要を満たす方であることを示すしるしでした。
この箇所が私たちに語ること
私たちもピリポやアンデレのように、自分の持っているものを見て
「足りない」
と考えることがあります。
しかし主は、人間の不足を超えて働かれるお方です。
また群衆はパンを求めましたが、イエスはそれ以上のものを与えようとしておられました。
私たちの最大の必要は、一時的な満足ではありません。
キリストご自身なのです。
主は今も、飢え渇く人々を満たすために来てくださいます。
この箇所の中心メッセージ
イエスは五つのパンと二匹の魚によって五千人以上の群衆を養い、神の豊かな供給を示された。
このしるしは単なる食物の奇跡ではなく、イエスが人々の真の必要を満たす「いのちのパン」であることを指し示している。
「人々は欲しいだけ食べた。」(ヨハネ6:11)

