ヨハネ7:14-36 神から来た教え
宮で教え始められるイエス(7:14-18)
仮庵の祭りが半ばになったころ、イエスは神殿に上って教え始められました。
すると人々は驚きます。
「この人は学んだこともないのに、どうしてこんなに聖書に通じているのか。」
当時、正式な教師は有名なラビのもとで教育を受けていました。
しかしイエスはそうした経歴を持っておられませんでした。
そこで主は答えられます。
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」
イエスの教えの権威は人間の学問からではなく、父なる神から来ていました。
さらに、
「神のみこころを行いたいと願うなら、この教えが神から出ているかどうか分かります。」
と言われます。
真理を理解する鍵は、単なる知識ではなく、神に従おうとする心にあるのです。
また主は、
「自分の栄光を求める者」と「遣わした方の栄光を求める者」
を対比されます。
イエスは常に父の栄光を求めておられました。
それゆえ、その教えは真実だったのです。
律法を守ると言いながら(7:19-24)
続いてイエスは、人々の矛盾を指摘されます。
「モーセはあなたがたに律法を与えました。しかし、だれも律法を守ってはいません。」
そして、
「なぜあなたがたはわたしを殺そうとするのですか。」
と言われます。
群衆は驚き、
「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」
と答えます。
しかしイエスは、ベテスダの病人を安息日に癒した出来事を取り上げられます。
彼らは割礼のためなら安息日にも働くのに、
人を完全に癒したイエスを非難していました。
そこで主は言われます。
「うわべによってさばかないで、正しいさばきをしなさい。」
宗教指導者たちは律法を持っていましたが、その本当の意味を理解していませんでした。
この方はいったい誰なのか(7:25-31)
エルサレムの人々は言い始めます。
「この人こそ、指導者たちが殺そうとしている人ではないか。」
しかもイエスは公然と語っているのに、誰も捕えようとしません。
そこで人々は、
「もしかすると指導者たちは、この方がキリストだと知ったのではないか。」
と考えます。
しかしすぐに別の疑問を口にします。
「この人がどこから来たか、私たちは知っている。」
当時、多くの人々はメシアの現れ方について様々な期待を持っていました。
そこでイエスは叫ばれます。
「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分から来たのではありません。」
主はナザレ出身という人間的な背景を超えて、
「わたしを遣わされた方がおられる。」
と語られます。
ここで真正面から、父なる神との関係を明らかにされたのです。
そのため人々の間には、
- 捕えようとする者
- 信じる者
が現れます。
しかし、
「その時がまだ来ていなかった。」
ため、誰も主に手をかけることはできませんでした。
去ろうとされる主(7:32-36)
祭司長たちとパリサイ人たちは、人々の間に広がる反応を聞き、役人たちを遣わしてイエスを捕えようとします。
そこでイエスは言われます。
「もうしばらくの間、わたしはあなたがたと共にいます。」
そして、
「あなたがたはわたしを捜しても見つけられません。」
と言われます。
これは十字架、復活、昇天を指しています。
主は父なる神のもとへ帰られるのです。
しかし人々は理解できません。
彼らは、
「ギリシア人のところへ行くのだろうか。」
などと議論し始めます。
イエスは天のことを語っておられましたが、人々は地上のことしか考えられなかったのです。
仮庵の祭りにおける大きな問い
この箇所では繰り返し、
「イエスは誰なのか」
という問いが現れます。
人々は、
- 教師だと言い
- 預言者だと言い
- メシアかもしれないと言い
- 捕えようともします
しかしイエスは、ご自身の教えも働きも父なる神から来ていることを明らかにされます。
ヨハネはここで、イエスを正しく理解するためには、その背後におられる父なる神を知る必要がある ことを示しているのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちも外見や先入観によって人や出来事を判断しがちです。
しかしイエスは、
「うわべによってさばかないで」
と言われます。
また真理を知るためには、知識だけでは十分ではありません。
神のみこころを行いたいという心が必要です。
イエスの教えは単なる人生訓ではなく、父なる神から来た救いのことばです。
そのため私たちは、この方を誰と認めるかという決断へ招かれているのです。
この箇所の中心メッセージ
イエスは、ご自身の教えが父なる神から来たものであると宣言された。
しかし人々は先入観や不信仰のために、その正体を理解できなかった。
真理は神のみこころを求める者に明らかにされるのであり、イエスこそ父によって遣わされた救い主なのである。
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(ヨハネ7:16)

