ヨハネ9:13-34 パリサイ人との調査
安息日の論争(9:13-17)
人々は、目が見えるようになったその人をパリサイ人たちのところへ連れて行きました。
ところが、その癒しが行われたのは安息日でした。
イエスは泥を作って彼の目に塗られたため、パリサイ人たちは再び事情を尋ねます。
すると彼は、
「泥を私の目に塗られたので、洗いました。すると見えるようになりました。」
と証言しました。
これを聞いてパリサイ人たちの間で意見が分かれます。
ある者は、
「この人は安息日を守らないのだから、神から出た者ではない。」
と言いました。
しかし別の者は、
「罪人がどうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか。」
と疑問を抱きます。
そこで彼らは盲人本人に尋ねます。
「あなたは、あの人をどう思うのか。」
すると彼は答えます。
「あの方は預言者です。」
彼の信仰理解はまだ完全ではありません。
しかしすでにイエスを単なる人以上のお方として認め始めています。
両親への尋問(9:18-23)
ユダヤ人たちはなお信じようとせず、その人の両親を呼び出します。
そして尋ねました。
「この人は本当にあなたがたの息子なのか。」
「生まれつき盲目だったというのか。」
両親は答えます。
「これは私たちの息子です。」
「生まれつき目が見えなかったことも知っています。」
しかし、
「どうして今見えるのか。」
については答えようとしませんでした。
なぜなら、
ユダヤ人たちを恐れていた
からです。
当時すでに、
イエスをキリストだと告白する者は会堂から追放される
ことが決められていました。
そのため両親は、
「本人に聞いてください。」
とだけ答えます。
ここには、人々が真理よりも人の評価を恐れていた様子が描かれています。
揺るがない証言(9:24-27)
パリサイ人たちは再び癒された人を呼び出します。
そして言います。
「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人だと知っている。」
つまり、
「イエスを否定しなさい。」
という圧力です。
しかし彼は答えます。
「あの方が罪人かどうか、私は知りません。」
「一つだけ知っています。私は盲目でしたが、今は見えるということです。」
これはヨハネ福音書の中でも最も力強い証言の一つです。
彼は神学論争には参加しません。
ただ自分が経験した恵みを語るのです。
さらに何度も同じ質問をされると、
「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
とまで言います。
癒された人の大胆さは次第に増していきます。
本当に見えない者たち(9:28-34)
怒ったパリサイ人たちは彼を罵倒します。
「おまえはあの者の弟子だ。」
そして自分たちは、
「モーセの弟子だ。」
と主張します。
しかし癒された人は驚くべき論理で答えます。
「神が罪人の言うことを聞かれないことは、私たちも知っています。」
「生まれつき盲目の人の目を開いた者がいるなど、昔から聞いたことがありません。」
そして結論として、
「もしあの方が神から出ておられないなら、何もできないはずです。」
と言います。
宗教教育を受けていない元盲人が、神学者たちよりも真実に近づいていたのです。
すると彼らは怒り、
「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」
と言って、
彼を追い出した
のでした。
見える者と見えない者
この場面には強烈な皮肉があります。
- 盲人は見えるようになっていく
- パリサイ人たちはますます見えなくなっていく
のです。
元盲人の理解は段階的に進みます。
最初は、
「イエスという方」
でした。
次に、
「預言者」
となります。
そして後には、
「主」
と告白することになります。
一方、パリサイ人たちは多くの知識を持ちながら、目の前の神の働きを認めることができません。
ヨハネはここで、
真の盲目とは肉体の問題ではなく、キリストを拒む心の問題である
ことを示しているのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちは難しい質問にすべて答えられなくても、神が自分にしてくださったことを証しすることができます。
この人は高度な神学知識を持っていませんでした。
しかし、
「私は盲目でしたが、今は見えます。」
と言うことができました。
また、真理に従う時には反対や拒絶を経験することもあります。
しかし人の評価を恐れるよりも、神が与えてくださった光に従うことが大切なのです。
この箇所の中心メッセージ
生まれつき盲目だった人は、癒された事実を大胆に証言し続けた。
一方、パリサイ人たちは奇跡を見てもイエスを認めようとしなかった。
真の盲目は肉体ではなく心の中にあり、キリストを受け入れる者こそ本当に見える者となるのである。
「一つだけ知っています。私は盲目でしたが、今は見えるということです。」(ヨハネ9:25)

