ヨハネ10:1-21 羊の門
羊飼いと盗人のたとえ(10:1-6)
イエスはまず羊飼いのたとえを語られます。
羊の囲いに入る者には二種類あります。
一つは門から入る羊飼いであり、
もう一つは別の所から入り込む盗人や強盗です。
羊たちは羊飼いの声を知っており、
「羊はその声を知っているので、ついて行きます。」
しかし知らない者には従いません。
ここでイエスは、神から遣わされた真の牧者と、人々を惑わす偽りの指導者を対比しておられます。
しかし人々は、このたとえの意味を十分には理解できませんでした。
わたしは羊の門です(10:7-10)
そこでイエスはたとえを説明されます。
「わたしは羊の門です。」
これはヨハネ福音書における第三の「わたしは~です」の宣言です。
羊は門を通って囲いに出入りします。
同じように、人が神の民となり、救いに入る道もキリストだけです。
主は言われます。
「だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」
そして、
「出入りして牧草を見つけます。」
救いとは単に罪の赦しだけではありません。
キリストとの交わりの中で養われ、守られ、導かれる生活でもあるのです。
一方、盗人については、
「盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来ます。」
と言われます。
しかしイエスは、
「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」
と宣言されます。
主は人を奪うためではなく、生かすために来られたのです。
わたしは良い牧者です(10:11-18)
イエスはさらに言われます。
「わたしは良い牧者です。」
これは第四の「わたしは~です」の宣言です。
旧約聖書では神ご自身が牧者として描かれています。
また、イスラエルの指導者たちも牧者と呼ばれていました。
しかし多くの牧者は自分自身の利益を求めていました。
そこで主は雇い人との違いを示されます。
雇い人は危険が来ると逃げます。
しかし、
「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
良い牧者は羊を深く愛し、そのために犠牲を払います。
ここには十字架の予告が含まれています。
イエスは羊を救うために、ご自身のいのちを献げられるのです。
さらに主は言われます。
「わたしはわたしのものを知っており、わたしのものはわたしを知っています。」
それは父と子の関係になぞらえられるほど深い交わりです。
また、
「わたしには、この囲いに属さないほかの羊もいます。」
とも語られます。
これは異邦人を含む世界の民を指しています。
そして、
「一つの群れ、一人の牧者」
になることが約束されます。
最後に主は、
「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。」
「わたしが自分からそれを捨てるのです。」
と言われます。
十字架は敗北ではありません。
良い牧者が羊を救うために自らいのちを差し出す行為なのです。
再び分かれる人々(10:19-21)
これらのことばを聞いて、人々の間には再び分裂が起こります。
ある者たちは、
「悪霊につかれている。」
「気が狂っている。」
と言いました。
しかし別の人々は、
「悪霊につかれた者が、このようなことを話せるだろうか。」
「悪霊が盲人の目を開けるだろうか。」
と反論します。
9章で起こった盲人の癒しは、人々の記憶に残っていました。
そのため、主のことばとわざの前で、人々は決断を迫られていたのです。
本当の牧者とは誰か
9章では、宗教指導者たちが盲人を会堂から追い出しました。
しかし10章でイエスは、
「わたしは良い牧者です。」
と宣言されます。
ヨハネはここで鮮やかな対比を描いています。
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パリサイ人たちは羊を追い出した
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イエスは羊を捜し出した
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パリサイ人たちは自分の権威を守った
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イエスは羊のためにいのちを捨てる
真の牧者は群れを利用するのではなく、群れのために自分を与えるのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちはしばしば様々な声に囲まれて生きています。
しかし主の羊は、
「羊飼いの声を知っている。」
と語られています。
大切なのは、多くの声の中でキリストの声に聞き従うことです。
またイエスは単なる導き手ではありません。
羊のためにいのちを捨てられた良い牧者です。
私たちの救いは、この牧者の犠牲によって成り立っています。
だから私たちは安心して、その方について行くことができるのです。
この箇所の中心メッセージ
イエスは「わたしは羊の門です」「わたしは良い牧者です」と宣言された。
主は羊を救いへ導く唯一の門であり、羊のためにいのちを捨てる牧者である。
偽りの牧者が自分の利益を求めるのに対し、キリストはご自身を献げて羊に豊かないのちを与えてくださるのである。
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)

