ヨハネ10:31-42 ヨルダン川向こうでの受容
石を取る人々(10:31-33)
イエスが、
「わたしと父とは一つです。」
(ヨハネ10:30)
と宣言されると、ユダヤ人たちは再び石を取って主を殺そうとします。
そこでイエスは尋ねられます。
「わたしは父から出た多くの良いわざをあなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために石を投げるのですか。」
しかし人々は答えます。
「良いわざのためではない。」
「神を冒瀆したからだ。」
「あなたは人間でありながら、自分を神としている。」
彼らはイエスの言葉の意味を理解していました。
問題は理解できなかったことではなく、受け入れられなかったことだったのです。
聖書に基づく弁証(10:34-36)
イエスは詩篇82:6を引用されます。
「わたしは『あなたがたは神々である』と言ったではないか。」
旧約聖書では、神のことばを受けた者たちが比喩的に「神々」と呼ばれる場合がありました。
そこで主は論じられます。
もし神のことばを受けた人々にそのような表現が用いられるなら、
「父が聖別して世に遣わした者」
が神の子と呼ばれることはなおさら正しいではないか、ということです。
イエスは神性の主張を取り下げているのではありません。
むしろ、ご自身が父によって遣わされた特別なお方であることを改めて示しておられるのです。
わざを見て判断しなさい(10:37-38)
さらにイエスは言われます。
「もしわたしが父のわざを行っていないなら、わたしを信じてはなりません。」
信仰は盲目的なものではありません。
主はご自身の働きを見て判断するよう求められます。
そして、
「たとえわたしを信じなくても、わざを信じなさい。」
と言われます。
これまでのしるしは、
- 病人の癒し
- 五千人の給食
- 盲人の癒し
など、父なる神の力を現していました。
そのため主は、
「父がわたしにおられ、わたしが父にいることを知るためです。」
と語られます。
ここでも父と御子の深い一致が強調されています。
捕らえられないイエス(10:39)
人々は再びイエスを捕えようとします。
しかし、
「イエスは彼らの手から逃れられた。」
とあります。
敵意はますます強くなっています。
しかし十字架の時はまだ来ていません。
主の生涯は人々の計画によって動くのではなく、父なる神のご計画によって導かれていたのです。
ヨルダン川向こうへ(10:40-42)
イエスはヨルダン川の向こう岸へ行かれました。
そこは、
バプテスマのヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所
でした。
福音書の初めを思い起こさせる場所です。
そこに多くの人々がやって来て言いました。
「ヨハネは何のしるしも行わなかった。」
しかし、
「ヨハネがこの方について話したことは、みな真実だった。」
とも語ります。
バプテスマのヨハネは奇跡を行いませんでした。
しかし彼の証言は正しかったのです。
そしてヨハネは最後に記します。
「その地で多くの人々がイエスを信じた。」
エルサレムでは激しい拒絶がありました。
しかしヨルダン川向こうでは、多くの人々が主を受け入れたのです。
拒絶と受容の対比
この箇所には鮮やかな対比があります。
エルサレム
- イエスを捕えようとする
- 石を投げようとする
- 神を冒瀆していると非難する
ヨルダン川向こう
- ヨハネの証言を思い出す
- イエスのわざを認める
- 多くの人が信じる
同じイエスを見ても、人々の反応は大きく分かれました。
ヨハネ福音書は繰り返し、
「あなたはイエスを誰だと信じるのか」
という問いを読者へ投げかけているのです。
この箇所が私たちに語ること
人は時に、十分な証拠があっても信じようとしないことがあります。
エルサレムの人々は数多くのしるしを見ながら、なおイエスを拒みました。
一方、ヨルダン川向こうの人々は、ヨハネの証言とイエスのわざを結び合わせて信じました。
信仰の問題は情報量だけではありません。
与えられた光にどう応答するかです。
また、バプテスマのヨハネは奇跡を行いませんでしたが、その証言は実を結びました。
私たちも目立つ働きではなくとも、キリストを正しく証しすることへ召されているのです。
この箇所の中心メッセージ
イエスは父と一つである神の御子として語られたため、エルサレムでは激しい拒絶を受けた。
しかしヨルダン川向こうでは、バプテスマのヨハネの証言を思い起こした人々が主を信じた。
同じキリストを前にしても、人は拒むことも信じることもできる。信仰とは与えられた証言と神の働きに応答することである。
「ヨハネがこの方について話したことは、みな真実だった。」(ヨハネ10:41)


