ヨハネ11:1-16 ラザロの死
愛する者の病(11:1-4)
ベタニアに、
ラザロ
という病人がいました。
彼はマリアとマルタの兄弟でした。
このマリアは後に主へ香油を注ぐ女性です。
姉妹たちはイエスに知らせます。
「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
ここには深い信頼が表れています。
彼女たちは、「来てください」とも、「癒してください」とも言いません。
ただ状況を主へ伝えました。
しかしイエスはその知らせを聞いて言われます。
「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」
ラザロの病は悲劇に見えました。
しかし神は、その出来事を通してより大きな目的を持っておられたのです。
ヨハネ福音書では、苦しみや死さえも神の栄光を現す舞台となります。
すぐには行かれなかった主(11:5-6)
ヨハネは特別に記します。
「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」
ところが続いて、
「その知らせを聞いた時、そのおられた所になお二日とどまられた。」
とあります。
私たちの感覚では不思議に感じます。
愛しているなら、すぐに行くはずではないかと思うからです。
しかし主の愛は、私たちの期待どおりに行動することではありません。
主は神の最善の時を知っておられました。
しばしば神の沈黙は無関心ではなく、より大きな御業への準備なのです。
再びユダヤへ向かわれる(11:7-10)
二日後、イエスは弟子たちに言われます。
「もう一度ユダヤへ行こう。」
すると弟子たちは驚きます。
つい最近、ユダヤ人たちは石を投げてイエスを殺そうとしたばかりだったからです。
しかしイエスは、
「昼の間に歩けばつまずきません。」
と言われます。
主は父の定められた時の中を歩んでおられました。
そのため人々の敵意によってその使命が妨げられることはありません。
神の光の中を歩む者は、神の守りの中にあるのです。
「ラザロは眠っています」(11:11-13)
続いてイエスは言われます。
「わたしたちの友ラザロは眠っています。」
そして、
「しかし、わたしは彼を眠りから起こしに行きます。」
弟子たちはこれを文字どおりに受け取ります。
「眠っているなら助かるでしょう。」
しかし主が語っておられたのは死についてでした。
聖書では信仰者の死を「眠り」と表現することがあります。
それは死が最終的な終わりではないからです。
主にあって死んだ者には復活の希望があります。
しかし弟子たちはまだその意味を理解できませんでした。
ラザロの死と弟子たちの信仰(11:14-16)
そこでイエスははっきりと言われます。
「ラザロは死にました。」
さらに驚くべきことを言われます。
「わたしは、あなたがたが信じるようになるために、その場に居合わせなかったことを喜んでいます。」
主はラザロの死を喜んでおられるのではありません。
これから起ころうとしている神の栄光の現れによって、弟子たちの信仰が深められることを見ておられるのです。
するとトマスが言いました。
「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
トマスはしばしば疑い深い人物として記憶されています。
しかしここでは勇気と忠誠心を示しています。
彼は状況を悲観的に見ていましたが、それでも主について行こうとしていたのです。
復活の前に訪れる死
この箇所の中心はラザロの病ではありません。
その先にある復活です。
イエスは最初から結末をご存じでした。
しかし主はあえて待たれました。
なぜなら、
病気の癒し以上に偉大なこと
を行おうとしておられたからです。
ヨハネはここで読者に、
「神の栄光はしばしば人間の絶望の後に現れる」
ことを教えています。
死が終わりに見える所で、神の力が最も明らかにされるのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちも、
「なぜ神はすぐに答えてくださらないのか。」
と感じることがあります。
祈っても状況が悪化するように見えることさえあります。
しかしラザロの物語は、神の沈黙が神の不在を意味しないことを教えています。
主は愛しておられたからこそ待たれました。
そして最終的には、人々の期待をはるかに超える御業を行われました。
私たちが理解できない時にも、神はなお働いておられるのです。
この箇所の中心メッセージ
ラザロが病に倒れた時、イエスはすぐには向かわれず、神の栄光が現される時を待たれた。
ラザロの死は終わりではなく、神の力と復活の栄光が現される舞台となった。
神の沈黙は無関心ではなく、より大きな御業への準備である。
「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」(ヨハネ11:4)

