ヨハネ15:12-17 友としての弟子
愛の戒めの繰り返し(15:12)
イエスは再び中心となる戒めを語られます。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
13章で語られた新しい戒めが、ここで改めて強調されています。
しかし今回はさらに深く、キリストの愛そのものが弟子たちの関係の模範である ことが示されます。
愛は弟子生活の付属品ではありません。
キリスト者共同体を成り立たせる中心そのものなのです。
最大の愛とは何か(15:13)
イエスは愛の頂点を示されます。
「人がその友のために自分のいのちを捨てること、これより大きな愛はだれも持っていません。」
この言葉は単なる一般論ではありません。
主ご自身が数時間後に実行されることを語っておられるのです。
イエスは弟子たちのため、さらに罪ある世界のために十字架で命を献げられます。
ここに神の愛の最高の現れがあります。
ヨハネ福音書において愛は感情だけではありません。
自分を与える犠牲的な行動です。
しもべではなく友(15:14-15)
続いてイエスは驚くべきことを言われます。
「わたしの命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」
旧約聖書では、アブラハムが神の友と呼ばれました。
しかし今、イエスは弟子たち全員を友と呼ばれます。
さらに主は言われます。
「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。」
しもべは主人の計画を知りません。
ただ命令に従うだけです。
しかし主は、
「父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
と言われます。
つまり弟子たちは単なる命令の受け手ではありません。
神の救いの計画を知らされ、その働きに参加する者たちなのです。
ここには主との親しい交わりが表れています。
選ばれた弟子たち(15:16)
イエスはさらに語られます。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。」
弟子たちは、
「自分たちがイエスについて行く決断をした」
と思っていたかもしれません。
しかし主は、
「わたしがあなたがたを選びました。」
と言われます。
救いも召しも、その出発点は神の恵みにあります。
そして選ばれた目的が語られます。
「あなたがたが行って実を結び、その実が残るためです。」
前段のぶどうの木のたとえともつながっています。
弟子たちは単に救われるためだけではなく、神の国の実を結ぶために選ばれたのです。
さらに、
「わたしの名によって父に求めるものを、父が与えてくださるためです。」
と言われます。
主の使命に生きる者には、神の助けが約束されています。
もう一度、愛し合いなさい(15:17)
この段落は再び同じ命令で締めくくられます。
「あなたがたが互いに愛し合うこと、これをわたしはあなたがたに命じます。」
はじめも愛、終わりも愛です。
それほど主にとって、この戒めは重要でした。
教会の一致、証し、交わり、奉仕、これらすべての中心に愛があります。
そしてその愛の源はキリストご自身です。
友として招かれた弟子たち
この箇所では、弟子たちの立場が美しく描かれています。
① 愛されている者
「わたしがあなたがたを愛したように」
② 友と呼ばれる者
「あなたがたはわたしの友です」
③ 選ばれた者
「わたしがあなたがたを選びました」
④ 実を結ぶために遣わされた者
「行って実を結ぶためです」
弟子とは単なる学習者ではありません。
キリストの愛の中に生き、主の友として使命を託された存在なのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちは時に、
「神のために何ができるだろうか。」
と考えます。
しかし主はまず、
「わたしはあなたを愛している。」
と語られます。
そして、
「あなたはわたしの友です。」
と呼んでくださいます。
キリスト者の働きは、その愛への応答として始まります。
また私たちが互いに愛し合う時、十字架の愛がこの世界に映し出されます。
その愛こそ、主の弟子であることを示す最も大きな証しなのです。
この箇所の中心メッセージ
イエスは弟子たちを「友」と呼び、ご自身が父から受けたことを知らせてくださった。
そして弟子たちのために命を捨てる愛こそ最大の愛であると示された。
信じる者は主によって選ばれ、実を結ぶために遣わされている。
キリストの愛を受けた者は、その愛をもって互いに愛し合うよう召されているのである。
「人がその友のために自分のいのちを捨てること、これより大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

