ヨハネ18:1-11 ゲツセマネでの逮捕
ケデロンの谷を渡る主(18:1-2)
大祭司の祈りを終えたイエスは、弟子たちと共にケデロンの谷を渡られました。
そこには園があり、主と弟子たちはよくその場所に集まっていました。
そのため、
「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。」
のです。
ユダは長い間イエスと共に歩んでいたため、主がどこにおられるかを知っていました。
皮肉にも、その親しい交わりの記憶が裏切りの手段として用いられることになります。
自ら進み出るイエス(18:3-6)
ユダは兵士たちと祭司長・パリサイ人たちの手下を連れて来ました。
彼らは、
- 松明
- ともし火
- 武器
を持っていました。
まるで危険な反乱者を捕らえるかのようです。
しかしヨハネは興味深いことを記します。
「イエスは、ご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられた。」
主は待ち伏せされて不意に捕らえられたのではありません。
すべてを知った上で前へ進み出られたのです。
そして尋ねられます。
「だれを捜しているのですか。」
彼らが、
「ナザレ人イエスです。」
と答えると、主は言われます。
「わたしは『わたしはある』という者である。」
「わたしはある」は、ヨハネの福音書の中で何度も登場した「わたしは~です(ἐγώ εἰμι/エゴー・エイミ)」と同じ言葉です。
そしてこれは、出エジプト3:14の
「わたしはあるという者である」
という神の御名と同じでもありました。
すると、それを聞いた彼らは、「後ずさりして地に倒れた」のでした。
ここには主の神的権威が垣間見えます。
捕らえられる立場にありながら、実際には主ご自身が完全な主導権を持っておられるのです。
弟子たちを守られる主(18:7-9)
イエスは再び尋ねられます。
「だれを捜しているのですか。」
彼らが再び、
「ナザレ人イエスです。」
と答えると、主は言われます。
「わたしがそれだと言ったでしょう。」
そして続けて、
「もしわたしを捜しているなら、この人たちは去らせなさい。」
と言われます。
この場面でも主はまず弟子たちを守っておられます。
ヨハネは、
「あなたがわたしに下さった者を、一人も失いませんでした。」
という以前の言葉が成就したと説明します。
大牧者であるイエスは、ご自身が捕らえられる時でさえ群れを守られるのです。
ペテロの剣(18:10)
するとシモン・ペテロが剣を抜きます。
そして大祭司のしもべに切りかかり、
右の耳を切り落としました。
そのしもべの名は、
「マルコス」
でした。
ペテロは主を守ろうとしたのでしょう。
彼なりの忠誠心の表れでした。
しかしそれは神の方法ではありませんでした。
少し前に、
「命を捨てます。」
と語ったペテロは、
今度は剣によって主のために戦おうとしたのです。
しかし神の国は武力によって実現されるものではありません。
父から受けた杯(18:11)
そこでイエスはペテロをたしなめられます。
「剣をさやに収めなさい。」
そして重要な言葉を語られます。
「父がわたしに下さった杯を、飲まずにいられるでしょうか。」
聖書において「杯」はしばしば神のさばきや苦難を表します。
イエスは今から、
人類の罪を担う杯
を飲もうとしておられるのです。
主は十字架を避けられませんでした。
避けられなかったのではなく、
父への愛と従順のゆえに、自ら進んで受け入れられたのです。
ここにヨハネ福音書が描くキリストの姿があります。
主は犠牲者ではありません。
父の御心を成し遂げるため、自ら歩み出される救い主なのです。
ヨハネ福音書における逮捕の特徴
他の福音書ではゲツセマネでの苦闘が強調されますが、ヨハネは別の側面を示しています。
それは、
イエスの主権
です。
この場面で主は、
- ご自身に起こることを知っている
- 自ら進み出る
- 敵を倒れさせる
- 弟子たちを守る
- 十字架を自ら受け入れる
お方として描かれています。
ヨハネはここで、
十字架への道は敗北ではなく、御子が自ら選び取った従順の道である
ことを示しているのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちは試練や苦難に直面すると、それを何とか避けようとします。
しかしイエスは、
「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるでしょうか。」
と言われました。
もちろん私たちは主の十字架を負うことはできません。
しかし父の御心に従うという点では、主に倣うよう招かれています。
またこの場面は、どんな状況でも主が支配を失っておられないことを教えています。
人間には混乱や敗北に見える時でも、神のご計画は確実に進んでいるのです。
この箇所の中心メッセージ
イエスは裏切りと逮捕を前にしても、自ら進み出て敵と向き合われた。
主は弟子たちを守りながら、父が与えられた苦難の杯を受け入れられた。
十字架への道は敗北ではなく、父への完全な従順による救いの成就であり、イエスはその道を自ら選んで歩まれたのである。
「父がわたしに下さった杯を、飲まずにいられるでしょうか。」(ヨハネ18:11)

