民数記19章 赤い雌牛 ── 汚れからの清め(19:1-22)

民数記19章は、死による汚れと、その清めについて語る章です。

17章ではアロンの杖が芽を出し、神が祭司としてアロンを選ばれたことが示されました。

18章では祭司とレビ人の務めが確認されました。

そして19章では、神に近づく共同体がどのように清さを保つのかが教えられます。

この章の中心は、罪と死によって汚れた人に対して、神が清めの道を備えておられるということです。

特に「死」は、人間の罪の結果としてこの世に入ったものを象徴しています。

神はその汚れを取り除き、ご自身との交わりを保つための方法を与えられたのです。

背景

民数記16~18章では、コラの反逆を通して神の聖さと権威が示されました。

民は神に近づくことへの恐れを抱きます。

そこで神は祭司制度を定め、人々が安全に神へ近づく道を備えられました。

19章は、その流れの中で語られています。

荒野の旅では多くの死がありました。

死体に触れることによる汚れをどのように清めるのかは、共同体全体にとって重要な問題だったのです。

1. 赤い雌牛の規定(19:1-10)

神はモーセとアロンに特別な命令を与えられます。

それは、

  • 傷のない
  • 欠陥のない
  • まだくびきを負ったことのない

赤い雌牛を用意することでした。

その雌牛は宿営の外でほふられます。

祭司エルアザルはその血を会見の天幕の方向へ七たび振りかけます。

その後、雌牛は皮も肉も血もすべて焼かれます。

さらに、杉の木、ヒソプ、緋色の糸も火の中へ投げ込まれました。

そして残された灰が保存されます。

この灰は後に清めの水を作るために用いられました。

興味深いことに、この儀式に関わった人々は汚れますが、その灰は他の人を清めるために使われます。

ここには、後にキリストの十字架において完成される贖いの姿が映し出されています。

2. 死による汚れ(19:11-16)

神は、死体に触れた者は七日間汚れると定められます。

また、天幕の中で死んだ人、墓、骨、戦場の死体などに触れた場合も同様でした。

ここで重要なのは、死そのものが汚れの源として扱われていることです。

死は神が本来創造された完全ないのちの状態ではありません。

それは罪の結果として人類に入ったものです。

そのため神の聖なる臨在の前では、死による汚れが清められる必要がありました。

3. 清めの水(19:17-19)

汚れた者のためには、赤い雌牛の灰を混ぜた水が用意されます。

その水がヒソプによって振りかけられます。

第三日と第七日に清めの儀式が行われ、その後でその人は清くなります。

ここで強調されているのは、人が自分で自分を清めることはできないということです。

神が備えられた方法によってのみ、清めは与えられるのです。

4. 清めを拒む者(19:20-22)

もし人が汚れたままで清めを受けようとしないなら、その人は共同体から断たれます。

なぜなら神の幕屋を汚すことになるからです。

ここには神の聖さが表されています。

神はあわれみによって清めの道を備えられました。

しかしその道を拒むなら、自ら神との交わりを失うことになるのです。

この箇所が私たちに語ること

民数記19章は、人間が罪と死の影響の中に生きていることを教えています。

死は誰も避けることができません。

そしてそれは、人が神を必要としていることを思い起こさせます。

また、この章は神が清めの道を備えてくださるお方であることを教えています。

汚れた者が永遠に拒絶されるのではありません。

神は回復への道を備えておられました。

さらに、この章はイエス・キリストを指し示しています。

赤い雌牛は宿営の外でささげられました。

同じようにイエスもエルサレムの城門の外で十字架にかかられました。

赤い雌牛の灰が汚れを清めたように、キリストの血は私たちの良心を清め、神との交わりへ導いてくださいます。

ヘブル書は、この出来事をキリストの贖いと結び付けて語っています(ヘブル9:13-14)。

民数記19章は、神が死の汚れよりも大きな清めを備えておられることを示しているのです。

この箇所の中心メッセージ

神は赤い雌牛の規定を通して、死による汚れから清められる道を備えられた。

人は自分の力で清くなることはできないが、神が与えられた方法によって回復される。

この清めの儀式は、後に宿営の外でご自身を献げ、完全な清めを成し遂げられるイエス・キリストを指し示しているのである。

「これは律法の定めである。主が命じて仰せられたことはこうである。」(民数記19:2)