ルカ3:15-20 来るべき方の紹介
来るべき方を指し示す声
ヨハネの力強い説教によって、多くの人々の心に期待が生まれていました。
長い間待ち望まれていたメシアが、ついに現れるのではないか。
そして人々は、
「もしかするとヨハネこそキリストなのではないか」
と考え始めます。
しかし、この箇所でヨハネは自分自身に人々の目を向けるのではなく、来たるべきお方へと人々の視線を向けます。
ヨハネの働きの中心は、自分を高くすることではなく、キリストを指し示すことだったのです。
ヨハネとキリストの違い
人々の期待に対して、ヨハネははっきりと答えます。
「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力ある方が来られます。」
ヨハネは偉大な預言者でした。
しかし彼は、自分が救い主ではないことをよく理解していました。
そのため、
「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもありません」
と言います。
当時、履物を扱うのは奴隷の仕事でした。
つまりヨハネは、「私はその方の最も低いしもべにも及ばない」と言っているのです。
人々がヨハネを見上げていた時、ヨハネ自身はキリストを見上げていました。
水のバプテスマと聖霊のバプテスマ
ヨハネは自分の働きとキリストの働きを比較します。
「私は水でバプテスマを授けますが、その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」
ヨハネのバプテスマは、人々に悔い改めを促すしるしでした。
しかし人の心そのものを変える力はありませんでした。
一方、キリストが与えられる聖霊は、人の内側を新しくします。
旧約時代から約束されていた新しい契約の祝福が、メシアによって与えられるのです。
ここでヨハネは、単なる宗教改革ではなく、人の心を根本から変える神の救いが始まろうとしていることを告げています。
「聖霊と火のバプテスマ」は何を意味するのか
「聖霊と火」という表現には、清めと裁きの両方の意味があります。
続く19-20節では、
籾殻は消えない火で焼き尽くされる
という表現が使われています。
収穫の場面では、
- 麦は倉に集められる
- 籾殻は取り除かれる
という選別が行われました。
キリストの到来は、単に慰めだけをもたらすものではありません。
人々はキリストにどう応答するかによって、その心が明らかにされるのです。
救い主の到来は、同時に裁き主の到来でもあります。
ここにルカ福音書が繰り返し語る重要なテーマがあります。
ヨハネの忠実さ
最後にルカは、ヘロデがヨハネを投獄したことを記します。
ヨハネは王の罪をも指摘しました。
その結果、迫害を受けます。
しかし彼は、人に喜ばれることよりも神に忠実であることを選びました。
彼の働きは人気を集めることではなく、真理を語ることだったのです。
ルカはここで、ヨハネが最後まで「主の道を備える者」として忠実に歩んだことを示しています。
この箇所が私たちに語ること
人はしばしば、自分に注目を集めたくなるものです。
しかしヨハネは違いました。
彼は常に、
「私ではなく、その方を見なさい」
と語りました。
また私たちは、キリストを単なる慰めや祝福を与える方として理解しがちです。
しかし聖書は、キリストが救い主であると同時に、私たちの心を吟味される主であることを教えています。
ヨハネの使命は、人々をキリストへ導くことでした。
私たちもまた、自分自身ではなくキリストを指し示す者として生きるよう招かれているのです。
この箇所の中心メッセージ
ヨハネは自分を高めることなく、来たるべきキリストを指し示した。
キリストは聖霊を与えて人を新しくし、同時に人々をふるい分ける裁き主でもある。
私たちはヨハネのように、自分ではなくキリストを示す者として生きるよう招かれている。
「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力ある方が来られます。」(ルカ3:16)


