ルカ9:28-36 山上の変貌
十字架の先にある栄光
ペテロが
「神のキリストです。」
と告白した直後、イエスはご自身の受難と死について語られました。
弟子たちにとって、それは理解し難い内容だったでしょう。
彼らはメシアの栄光を期待していましたが、イエスは苦しみと十字架について語られたのです。
そこで神は、これから十字架へ向かうイエスの真の姿を弟子たちに示されます。
山上の変貌は、十字架の苦しみの前に与えられた栄光の啓示でした。
祈りの中で現された栄光
イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山へ登り、祈っておられました。
ルカはここでも、祈るイエスの姿を強調しています。
そして祈っておられるうちに、
御顔の様子が変わり、衣は白く輝いた
のです。
普段は隠されていた神の子としての栄光が、一時的に現されたのでした。
弟子たちが見たのは、新しい姿になったイエスではありません。
むしろ、
もともと持っておられた栄光が現れた姿
だったのです。
モーセとエリヤの登場
さらに二人の人物が現れます。
それはモーセとエリヤでした。
モーセは律法を代表し、
エリヤは預言者を代表する人物です。
つまり旧約聖書全体が、イエスを中心に集まっていることを示しています。
そして彼らは、
イエスがエルサレムで遂げようとしておられる「最期」
について語っていました。
新改訳2017版聖書で「最期」と訳されている言葉は、原語では「出エジプト」を意味する言葉です。
かつて神がモーセを通してイスラエルをエジプトから解放されたように、
イエスは十字架と復活によって、人々を罪と死の支配から解放しようとしておられたのです。
興味深いことに、この栄光の場面で語られている中心テーマは十字架でした。
ルカは、
栄光への道は十字架を通る
ことを示しています。
ペテロの勘違い
弟子たちは眠気から覚め、この光景を目にします。
するとペテロは、
「先生、私たちがここにいるのはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。」
と言います。
彼はこの素晴らしい体験を留めておきたいと思ったのでしょう。
しかしルカは、
何を言っているのか分からないでいた
と記しています。
ペテロは栄光を見ましたが、まだ十字架の意味を理解していませんでした。
人は栄光を求めます。
しかし神のご計画は、ここに留まることではなく、エルサレムへ向かうことでした。
山の頂ではなく、十字架こそ救いの完成の場だったのです。
「この人の言うことを聞け」
すると雲が現れ、彼らを覆いました。
旧約聖書では雲は神の臨在のしるしでした。
出エジプト記では幕屋を雲が覆い、
神殿奉献の時にも神の栄光が満ちました。
そして雲の中から声が聞こえます。
「これはわたしの子、わたしの選んだ者。この人の言うことを聞け。」
これはイエスのバプテスマの時の宣言に似ています。
しかし今回は弟子たちへの命令が加えられています。
「この人の言うことを聞け」
モーセやエリヤではありません。
群衆の意見でもありません。
父なる神は、イエスこそ最終的な権威を持つ方であると宣言されたのです。
イエスだけが残られる
声が終わると、
イエスだけがおられた
と記されています。
これは非常に象徴的な場面です。
律法を代表するモーセも、
預言者を代表するエリヤも去りました。
残ったのはイエスだけでした。
旧約聖書の律法と預言者は、すべてキリストを指し示していました。
今や弟子たちは、イエスご自身に従うよう招かれているのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちも時に、苦しみより栄光を求めます。
困難を避け、すぐに結果を見たいと思います。
しかし山上の変貌は、十字架の前に起こりました。
神はまず栄光を見せ、その後に十字架への道を進ませたのです。
それは弟子たちが苦難の中でも希望を失わないためでした。
また父なる神は今も私たちに、
「この人の言うことを聞け」
と語っておられます。
信仰生活の中心は、体験や感情ではなく、キリストのことばに耳を傾けることなのです。
この箇所の中心メッセージ
イエスは神の栄光を持つ神の子であり、律法と預言者が指し示してきた救い主である。
その栄光は十字架を通して現される。
弟子たちはキリストのことばに聞き従い、十字架の先にある栄光を見据えて歩むよう招かれている。
「これはわたしの子、わたしの選んだ者。この人の言うことを聞け。」(ルカ9:35)

